「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】  物語の転換期となる二人の人物の死の効果的な描写

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】  物語の転換期となる二人の人物の死の効果的な描写


毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について、感想文を書いている。しかし、一応歴史小説家でもあるので、なんとなく物語になりそうな「史実」をまずは書いてみたい。

 さて今回は、眞島秀和さんの演じる江戸幕府第10代将軍の徳川家治についてみてみよう。

元文2年(1737年)5月22日、第9代将軍・徳川家重の長男として江戸城西ノ丸にて生まれる。母は梅渓通条の娘・梅渓幸子(至心院)。父の将軍家重が言語が不明瞭であり「暗君」といわれていたことから、聡明な家治に関しては祖父の八代将軍徳川吉宗がかなり期待していたといわれる。延享2年(1745年)に祖父の吉宗が将軍職から退いて父の家重が将軍に就任した際、吉宗は大御所として江戸城西の丸に移ったが、それから吉宗が没するまでの6年間、家治を自らの傍に常に侍らせて将軍となるべき心得を常に指導したという。

 宝暦10年(1760年)2月4日、右近衛大将をそれまでの官位と兼任の形で叙任。5月13日、父の隠居[注釈 1]により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。将軍の代替わりごとに実施される諸国巡見使の任命は宝暦10年(1760年)7月11日に、武家諸法度の公布は宝暦11年(1761年)2月21日にそれぞれ滞りなく行なわれている。父の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。

安永8年 (1779年)2月、世子・徳川家基が18歳で急死した。家治には他に男子が無く、家治の弟である重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次の3名に命じた。この結果、閏5月18日に御三卿の一橋徳川家の徳川治済の嫡子である豊千代に決定し、11月2日に豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任された。この際に家斉を将軍継嗣とした立役者は田沼意次であり、天明元年(1781年)7月15日に将軍養子人選の労を家治に賞されて、1万石の加増を受けている。

天明6年(1786年)8月25日に江戸城で死去。享年50(満49歳没)。死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている。徳川家の公式記録である『徳川実紀』では、歴代将軍の死去について忌日、その亡くなった経緯などを詳しく書いているが、家治については曖昧な書かれ方をしている。死因については脚気衝心としている。しかし、『徳川実紀』にその記録は無く、水腫と感冒としている。家治の死の直前、田沼による毒殺説がかなり広まった。家治を診察する当初の医師は河野仙寿院だったが、家治の病状は回復しなかった。このため8月15日に奧医師の大八木伝庵に代わった。しかし、8月16日に田沼が町医者の若林敬順と日向陶庵を推薦し、家治が受け入れてこの2人の治療を受けることになった。この2人は8月19日に奥医師に昇格され、それぞれ蔵米200俵を下賜された。しかし同日、若林の調薬を受けた家治は急に病状が悪化したので、8月20日に大八木が再度薬を調合するようになった。そして8月25日に家治は死去したとしている。家治の最期は尋常なものではなかったようで、『天明巷説』では忌日の翌日である8月26日に「家治の死躰がしきりにふるえだし、吐血夥しく、異常な死にざまだった」としている。『翁草』では「大奥の女中、口々に田沼主殿頭(意次)御上へ毒薬を差上たりと、数千の女中罵る事夥し」と記録している。いずれにしても、家治の死は不可解な状況と政治的な思惑が重なり、暗殺された可能性が拭えないものとなっている。

当然にこの将軍の死が、ドラマでは「あの人」の陰謀になっている所が興味深い。

<参考記事>

【べらぼう】井之脇海が演じる新之助の家族に悲劇 「蔦重の厚意が裏目に」と指摘する声も

東スポWEB8/17(日)20:45

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/tokyosports/entertainment/tokyosports-356256

<以上参考記事>

 今回のポイントは、上記にも書いたが10代将軍徳川家治と、元花魁うつせみのふく(小野花梨さん)の死であろう。

徳川家治の死は、史実というか記録に残っている内容とは異なり、やはり一橋治済(生田斗真さん)の陰謀というような形になっていた。一橋治済の陰謀は、ある意味で運も味方に着けたような形になっており、田沼意次の失脚は大雨と利根川の決壊によって完成されているが、その時の雨はさすがに陰謀で降らせるわけにはいかないので、やはりうんがよかったとか、時代的な必然であったということになる。

ただし、将軍徳川家治の死に際に、自分の息子である徳川家基の名前を言い、そして、一橋治済のところまで這って行って「天は見ているぞ」という言葉を残して死んだ内容に関しては、やはり、家治は陰謀の塗巣がだれかわかっていたということなのであろう。ある意味で、御三卿といわれる中の一角である田安家(松平定信の生家)をつぶすということを決断したのは、そのような陰謀をわかっていたからなのではないかというような感覚を残す内容になっている。ある意味で将軍家治と田沼意次(渡辺謙さん)と、御三卿の陰謀での戦いが静かに進んでいた結果、御三卿の陰謀がまさったというように見えるのは、私だけであっただろうか。

ある意味で、将軍という「何でもできる」権限を持っている立場になってしまうと、逆にその力を行使することができず、何もできなくなってしまうということがこのドラマの中に書かれている。様々な意味で、現代でも「周囲が期待するほどトップが変わっても改革が進まない」というのは、よくあることではないか。まさにその内容がこの将軍にうまく書かれているのである。

さてもう一つの死。ふく。吉原を足抜けし新之助(井之脇海さん)と幸せに暮らしていたが、利根川の決壊で混乱する中、米を差し入れに来た蔦屋重三郎(横浜流星さん)の米を目当てに貧しい人が入ってきて、襲われて亡くなってしまう。「俺は誰を恨めばいいんだ」という新之助の言葉は、実は様々な災害とその災害の後、避難所などで聞こえる言葉であり、作家の森下佳子先生が、実によく災害現場などを取材(実際に行ったかどうかは知りませんが、そのような経験をした人々の話を聞いている)という事ではないだろうか。私も阪神大震災た東日本の震災で動揺のことが見えてきた。食べ物を譲ったり、またはみんなのことを助けて過労死に近い形で死んでしまった仲間を見て、もっと早く援助が来ていたら、とか、もっと何とかならなかったのかというようなことを言う人の姿を見て、このシーンではそのことを思い出してしまったものである。本当にうまく書けている。

参考記事の中には、「蔦屋重三郎がこの家だけに支援をしたから、みんなからの妬みがこういう結果を生んだのではないか」というような声があったというが、その蔦屋も親切心である。恨む対象ではないであろう。ただ、何かうまくゆかないときというのは全てが歯車が狂うようにできているのが人生だ。そのことをうまく表現しているのではないか。多分新之助は「俺はなぜ死ななかったのか」ということと、その怒りの矛先をどこに向けるのかということが、次の伏線になるのであろう。

純粋に作家目線でいえば、「新之助とふく」という架空人物を登場させ、幸せから不幸に転落させるということは、当時の人々の描写としては非常にやりやすい内容である。そしてその内容をいかに効果的に描くかということが、ドラマとしての面白さにつながる。

この庶民の恨みが、「田沼政治への批判」につながることは見えてくるし、また、蔦屋にとっても後半の不幸の連続につながってくるということになるのであろう。

宇田川源流

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