「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性教育の拡充は必要なのか?では昔はどうしていた?
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性教育の拡充は必要なのか?では昔はどうしていた?
今週も「土曜日エロ」の日になった。なんと今月最後の土曜日である。何ともう今年も半分終わってしまうということに驚きを隠せない状態である。光陰矢の如し。まさにそんな感じである。
さて、またいつもの記事になる前に、今週会ったことを見てみよう。今週はやはりアメリカのイラン攻撃とそしてイランとイスラエルの停戦という事であろうか。そして、日本の芸能を見てみると、元TOKIOの国分太一さん(昔メンバーというなんだかわからない呼称をしていたような気がするが、あの呼称はどうしたのであろう)が、日本テレビの番組収録中またはその前後で何かがあったようで、基本的には無期限の芸能活動の自粛ということになったという。さて、大きなニュースは二つなのだが、とりあえず、イランとイスラエルとアメリカの話は、何と泣くほかでも取り扱うことになるので、あまりほかでは扱わない国分さんの話をしてみよう。
さて、この記者会見が話題になっている。なぜか事務所である「株式会社TOKIO」ではなく、日本テレビの社長が記者会見を行い、国分さんの出演自粛を伝えた。それは日本テレビの番組での出来事であるということなので、そこまでは理解できる。しかし、その会見では「何があったのか」等は一切プライバシーの問題があるからと言って何も言わなかった。そのことから、マスコミはセクハラではないかとか、パワハラとか、様々なことが言われるようになったのである。そのうえ日本テレビの対応を疑問視し、知る権利などと訳の分からないことを言う人も出てきた。
さて、フジテレビの中居正広さんの事件の時に、その相手の女性アナウンサーが、様々な誹謗中傷を受けたことは記憶に新しいが、日本のマスコミは、そのような反省もなく、今回の国分さんの時も何が会ったのか、相手は誰なのかなどを根掘り葉掘り気候としている。残念ながら被害者を守るというような当たり前のことが全く行わないのに、そのような興味本位の報道だけはしっかりと行い要求するということになるのである。このことでわかるのは、日本テレビの社員がその被害者で、なおかつ日本テレビの社長はその社員を守るために一切の情報開示を行わなかったという事であろう。私としては組織の長としては、その組織の中で行うことは当然のことであると考える。逆に被害者の保護もろくにできず、誹謗中傷をそのまま放置して、自分の稼ぎのためだけに、興味本位の情報を行えないから日本テレビを非難するということは、単純に、マスコミが終わっているということを表しているのであろう。
まず、マスコミが行わなかったのは、「視聴者の教育」である。その教育がない状態で、情報などが出てくるはずがない。当然のことなのである。そのこともわからなくなった日本のマスコミは、そろそろ信用を失うのであろう。
それは性教育も同じ、しっかりとした教育がなければ、うまくゆかないのである。
<参考記事>
性教育の拡充、教委の7割が「必要」指導要領以上「認めたい」も半数
6/12(木) 朝日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa9b6a260f908991df7e008a05c3789be01d7939
<以上参考記事>
さて、日本の性教育ということが大きな問題になっている。はっきり言って男女平等とか言いながら、やはり肉体的な別は仕方がなくその問題を取り上げるということになるのであろう。
さて、男女平等とか、そういったことは日教組などの教員の人々が強く推進していた者であって、いまさら「たりない」などといわれても、困ったものである。いったいこの教員というのは何を考えているのであろうか。私は昔から「子供やある程度の大人が犯罪を犯した場合、その子供を育て得た人をすべて公開すべき」ということを主張している。教育は責任をもって行うべきであり、その責任を持った教育ができないのであれば、困ったものである。もちろん、ノーベル賞授賞など良いことをした人の教員も公開すればよい。信賞必罰は重要であり、そのようにすることから教育の質はよくなってゆくのでは愛華。
日本の場合、性的なことは「青少年保護」という建前のことから、なぜか秘密にしてしまう。しかし、そのことから様々な弊害が出てきている。もちろん煽情的な教育をしろとは言わないが、しかし、必要なことも青少年保護の観点から教えられないのであれば、教育の意味がない。それならば教育などは止めてしまい、すべて家庭教育にした方が良いという、ユーチューバーが行っていた極論がまかり通ってしまうことになる。
さて、性教育に関しては、昔、私が子供の頃であるから40年ほど前も今も、人間の身体が変わっているわけではないので、基本的には、何も変わらないはずなのである。昔も性教育などはあまり積極的には行われておらず、女性だけが集められてというようなことで、男性である私などはまともな性教育は受けたことがないのである。
では、昔の人、まあ、江戸時代とかではなく、昭和などの人々はどのようにして性教育学んだのであろうか。実際には、さまざまあ「興味本位」のことから、私などは男子校であったので男性同士の話などから、様々に学んでいったのだ。ある意味で、まともに授業を受けなくても、「興味と知る意欲があれば、いくらでも学ぶことができる」というのは、昭和の男性に対する性教育そのものであろう。現在は、全て「封さ」してしまうことから、興味本位であっても学ぶことができない、いや、実際はネットなどで学ぶことはできるのであるが、ネットというのは、「他人に自慢するためにある」ということから、極端な事例が出てきてしまい、それができると思って性的な犯罪などが起きてしまうのである。ある意味でリアルなコミュニケーションの中で、様々な失敗談などを話を聞いて学んでゆくものである。そのような学びを否定してしまっては、学ぶことも学べなくなってしまう。
「性教育が足りない」というよりは、まずは「性教育に限らず学ぶことすべてについて見直す」必要がある。まさにその「性教育」は、今まで何もしていなかった分、教育改革にはやりやすいのではないか。
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