「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 鱗形屋が店をたたむ一部始終と恋川春町の案事
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 鱗形屋が店をたたむ一部始終と恋川春町の案事
毎週水曜日には、NHK大河ドラマ「べらぼう」の感想を書いている、先週の内容でニュースなどはほとんどが、冒頭の「性的な内容に関する警告」に関するものばかりであった。しかし、本来は、先週書いたようなドラマの内容に関する内容をしっかりと検証すべきではないか。だいたい、今回のドラマは吉原遊郭を題材にしているということから、性的な内容は当然のことである。吉原の話をしていてその様な描写がないということの方がおかしいし、また、遊郭があったということを含めて、日本の歴史である。現代がそのようなことがタブー視されていたり、公共の電波で使うのは好ましくないという風潮はあるが、そのようなことを見ないようにすること自体がおかしいのである。それが日本の歴史である。
さて、今回は岡山天音さん演じる「恋川春町」についてみてみよう。
恋川春町の本名は倉橋格。延享元年(1744年)に紀州徳川家附家老の安藤次由(帯刀)の家臣である桑島勝義(九蔵)の次男として誕生。宝暦13年(1763年)に召しだされて金6両2人扶持で小島藩士となり、中小姓格右筆見習書役兼帯となる。同年、同じく小島藩士で父方伯父の倉橋勝正の養子となる。
その後、小納戸格、刀番となり、明和8年(1771年)に藩主松平昌信が死去して松平信義が藩主になるとさらに出世して、『高慢斎行脚日記』を執筆した安永5年(1776年)には取次兼留守居添役となる。1782年(天明2年)頃から酒上不埒という名で狂歌に熱中し、自ら一派を立てた。天明5年(1785年)の小島藩年貢割付状には、倉橋寿平名義の署名がある。天明7年(1787年)には年寄本役、石高120石となる。
しかし、その翌年に執筆した黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)幕府から呼び出しを受ける。春町は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し、まもなく同年7月7日(1789年8月27日)に死去したという。10歳近く年上の朋誠堂喜三二とは特に仲がよく、喜三二の文に春町の画というコンビ作も多い。再婚相手も喜三二の取り持ちという。
<参考記事>
「べらぼう」鱗形屋の贈り物が超泣ける!蔦重が号泣した奇跡の偶然
5/18(日) シネマトゥデイ
https://news.yahoo.co.jp/articles/09139e71869e4d42cc2ddaf08e023cfbd38fe679
<以上参考記事>
今回は庶民の動きでは鱗形屋(片岡愛之助さん)が店をたたむということが話の基軸になり、もう一つの幕府中枢では、10代将軍家治(眞島秀和さん)が自分の子供をあきらめるということが基軸になっている。いずれも蔦屋重三郎(横浜流星さん)や田沼意次(渡辺謙さん)という「自分の創意工夫で資本主義経済を生き抜く」ということをやっている人から見て、その関係先が今までの道と異なる道に進むということが話の主軸になる。その中で将軍と田沼意次の方は、来週の話になる。
一方鱗形屋の方は、店をたたむことになる。その時に今までの引継ぎとして吉原細見は、西村屋(西村まさ彦さん)、そして作家の春川恋町の作品に関しては鶴屋(風間俊介さん)に引き継ぐことになる。しかし、鶴屋は春川の作風を古いとしてしまって、春川の個性を奪ってしまう結果になる。その春川を蔦屋重三郎が引き継ぐということになる。
さて、その中で私が共感したのは、「春川恋町の心をつかむために多くの人が集まって案事(作品の原案)を考える」ということである。
「一人のためにみんなが協力する」ということは別段おかしな話ではない。しかし、そこに集まっているのは、朋誠堂喜三二(尾美としのりさん)など、自分たちでその作品を書くことのできる人々ばかりである。現在の作家に関してもこのように多くの作家が自分で書くことのできるような内容をほかの作家に譲ることがある。一方、恋川春町のように一人で悩む人もいる。
この悩みは、現在の人々の「仕事の悩み」等もすべて同じではないか。会社の上司から無理難題や大きな課題をまかされた時に、一人で悩むのか、自分ではできないというような感じになるのか、またはその仕事から逃げ出すのか、ということになる。しかし、そのような時に多くの人が「面白おかしく、笑いながら手伝ってくれる関係」があるということが最も大きな内容になるのである。現在の仕事などで悩んでいる人々が、その答えに近づく方法を示してくれていることの気づく人はどれくらいいたのであろうか。
やはり、ドラマというのは現代人に大きなメッセージを送ってくれているということになるのである。
そして最後のシーンで鱗形屋と蔦屋重三郎の思い出話と理解がある。鱗形屋は最後に残った赤本「塩売文太物語」の版木を蔦屋に渡す。そして蔦屋は、その版木を見ただけで赤本「塩売文太物語」であることを理解し、涙をポロポロ流しながら、「これ、初めて買った本なんでさ」「駿河の親父さんに初めてもらったお年玉を握りしめて買いに行った」「うれしくて、てめえの名前書いて。そうか、これ鱗形屋さんだったのか…」と喜びに震え、「俺にとっちゃ、こんなお宝ねえです。これ以上ねえお宝をありがとうございます」と頭を下げた。すると鱗形屋もたまらないと言った感でもらい泣きし、「うちの本読んだガキが本屋になるってよ…びっくりがしゃっくりすらあ」と奇跡の巡り合わせを喜んだ。
自分の本を読んでくれた人が、その本の影響を受けているということは、作家にとっては非常に嬉しいものである。その話を聞いて鱗形屋は非常に嬉しかったはずだ。そしてつ蔦屋重三郎も嬉しかったに違いない。
初めて分かり合えた。現在「活字離れ」「本離れ」ということが言われている。しかし、その本の効用というものは、鱗形屋と蔦屋の関係のような素晴らしい人間関係を支えるものになっている。改めて本やエンターテインメントのすばらしさがここで表現されているということが、非常に面白いのではないか。
鱗形屋さんは、今回で退場ということになる。しかし、その蔦屋に与えた影響はずっと残るのではないか。
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