「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 藤原伊周の呪詛事件
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 藤原伊周の呪詛事件
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、一視聴者として好き勝手に書かせていただいている。まあ、本当に一視聴者なので、政策の内幕や脚本の古都、またはこれから先の話などは全く分からないのであるが、まあ、その代わり自分ならばこのように表現するとか、この辺の表現はなかなか素晴らしいとか、そういった感じの一ファンの内容になってしまうのではないかと息がしている。
さて、今回は「呪詛」事件である。
そもそも「呪詛」というのは、古代の言霊信仰に由来するモノであり、神社などで行う「祝詞」と起源を同じにするという説がある。もちろん、説であって他にも様々な考え方がある。人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらさしめんとする行為であり、まだ平安時代には、実際に「物理的な力がある」と思われていた。
当時の調停には「呪詛」「祝詞」「占い」「星読み」等を行う「陰陽道」を司る「陰陽寮」という、現在の役所に当たるものがあり、自然災害や人的な内容又は病気、場合によっては今回のような呪詛に対抗する力として官僚が呪術を用いる問いことになる。
「口編」に「兄」と書くところから、この呪詛に使う言葉は通常の言葉ではなく「魂がこもった言葉」と思われており同時に「神と会話する」ということによって「超自然的な力を行使する」ということになる。そのことがそのまま「口から出る高貴な、というか神に近い言葉」ということになる。
古代では、呪詛に該当する「蠱毒厭魅」「巫蟲」は、『養老律令』賊盗律などに処罰対象と規定された禁止・違法行為であった。井上内親王(光仁天皇の皇后)のように、他人や国家を呪ったとして罰せられたり、失脚させられたりした貴人や僧侶、呪術者もいる。
今回は、藤原道長(柄本佑さん)の甥にあたる藤原伊周(三浦翔平さん)が、呪詛事件を起こしたということが、話の中心になるのである
<参考記事>
大河『光る君へ』敦成親王や藤原道長の呪詛事件の真相 軽すぎる処罰…捏造の可能性も
2024年10月7日 デイリースポーツ
https://www.daily.co.jp/gossip/subculture/2024/10/07/0018202808.shtml
<以上参考記事>
1008年(寛弘5年)9月、藤原道長の娘で一条天皇の中宮藤原彰子が待望の男児を出産(第二皇子・敦成親王)。これによって、妹の藤原定子が産んだ第一皇子・敦康親王の即位を望んでいた藤原伊周は大きな打撃を受けることになる。そんな中に起こったのが、敦成・彰子・道長の呪詛事件である。
『日本紀略』によると、首謀者は高階光子・伊周の家人源方理とその妻・源為文(方理の妻の父)の4人であり、『政事要略』によると、実行犯は法師陰陽師の円能ということになる。円能が逮捕され、そこで口を割ったなかで首謀者が藤原伊周であるというように話したということになる。
当時は、呪術は実際に力があるとされていたので、呪詛を行うことは「殺人」または「殺人未遂」と同じになる。朝廷内特に天皇や親王を狙った「呪詛」は、戦前の皇族に対する不経済と殺人未遂のようになり、反逆罪と同じということになる。そのことから「資材」というように決まっていた。
首謀者で今回円能に直接呪詛を依頼した高階光子は、伊周の母・高階貴子の妹である。父の成忠は995年(長徳元年)、娘婿の藤原道隆(井浦新さん)の薨去後、伊周と道長が政権を争った際、陰陽師に道長を呪詛させている。翌年、伊周は長徳の変を起こし、さらに道長の姉・詮子(吉田羊さん)を呪詛したなどの罪で左遷されている。この事件は、すでにドラマで出てきており、ドラマの中では、道長の妻である源倫子(黒木華さん)がうまく処理したことになっていた。当然に前科があるということで、敦成・彰子(見上愛さん)・道長の呪詛事件で真っ先に疑われたのは伊周と高階家ということになる。特に道長を恨んでいるのは、藤原伊周ということになる。
『栄花物語』によると、道長は成忠の息子・明順を容疑者として断定した。しかし、『栄花物語』によると、道長のもとを退出して数日後に体調を崩して亡くなったのだという。
ただ、伊周の叔母の高階光子と家人の源方理は官位をはく奪され、伊周は公務を停止されたが、明順は処罰者の中には含まれていなかったらしい。
近愛ドラマでは、一条天皇の思いを先に忖度して、道長の方から資材ではなく、公務停止としたということになる。そもそもドラマの中でもそうであるが伊周を従二位に傷心させ参内を許したのは一条天皇(塩野瑛久さん)であり、その心を汲むことはそれほど難しくはないということになる。その心を忖度した結果、上記位なる『栄花物語』のように、他の首謀者を作り、巻き込まれた形にしたという事であろう。
このような措置から、ドラマでは藤原道長が権力の亡者的に、もっと言えば、父兼家的な権謀術数を使ってライバルを排除したというような事ではなく、優しく、なるべく争いを好まない性格というように書かれているところが面白い。ある意味で「権力の亡者ではないところに、権力が集まる」というような、そして「権力を追い求めた伊周が、権力から嫌われる」というようななかなか面白い形になっているんではないか。作者の大石静さんにとっては、「権力」も「恋愛」も同じように映っているのかもしれない。ある意味で「人の心」とはそのようなものであると考えて、あまり執着しないということが一つの形になっているのではないか。実際の藤原道長がどのような人物であるかはよくわからないが、しかし、ある意味で権力も恋愛も、そして運も、追い求めるとかえって逃げてゆくという非常に面白いところを書いているのではないか。
さて藤原伊周は、史実では、この呪詛事件の翌年に死んでしまう。そこにも様々なドラマがありまたその後伊周の弟藤原隆家(竜星涼さん)と道長の関係が出てくるのであるが、その事はまた次回以降の話になる。
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