「宇田川源流」 1989年の六四天安門事件より35年たった今の中国
「宇田川源流」 1989年の六四天安門事件より35年たった今の中国
あの日から35年である。もちろん天安門事件である。ちなみに「天安門事件」は今までに二回ある。35年前に会ったのは2回目の方である。
ちなみに、第一次天安門事件は、1976年4月4日の毛沢東政権末期に発生した事件である。この年の1月に周恩来が死去し、「走資派(資本主義の道を歩む実権派)」批判のキャンペーンが一斉に開始された。一方、長年、中国の革命と建設および国際的舞台における中国の威信の増大に努めた周恩来首相を追悼しようとする中国民衆の意向は抑えられ、ふたたび極左的な潮流が支配し始めた。そのような中で周恩来をしのぶ集会が行われたが、警察が周恩来の記念碑を撤去したことによって民衆が暴動を起こした事件である。
第二次天安門事件は1989年6月4日のことである。
4月中旬の胡耀邦元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあった鄧小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。学生たちが中心で始められた追悼デモは民主化要求のデモに発展し、やがて広範な市民の参加を得て、広場の占拠、ハンストなどを展開した。そこに、政府機関の役人、マスコミ、軍人なども参加し数万人規模でデモが繰り広げられた。当時、学生側に共感した趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)総書記は失脚し、江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)・上海市党委書記が後任に選ばれたが、民主化を求める学生や市民を「反革命暴乱」分子ときめつけ、5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。これによる死者は2000人,負傷者は3万人に達したといわれ「血の日曜日事件」といわれる
1988年に高校を卒業して「浪人」していた私は、その日のテレビを見て「中国の内戦」というように思ったのを覚えている。中国人民解放軍が、集まった数万人の人々に向けて機銃を放ち、そして戦車や装甲車が民衆を飲み込んでゆく映像は、現在ではすべてモザイクがかかるのであろう。実際に起きたことを「見る人がショックを受けるから」として隠すことは、真実を隠すことではないかと思うが、確かにショックであったことは事実だ。同時に、その内容が世界に報道され、中国という国の異常性がよく分かったところである。
天安門事件から35年 胡耀邦氏が眠る地で考えた中国政治の振り子現象
1980年代に中国共産党総書記を務めた改革派指導者、胡耀邦氏の墓がある江西省共青城市を訪ねた。89年6月4日、北京市で学生の民主化要求運動を武力で制圧した天安門事件は急死した胡氏の追悼活動が引き金になった。事件から35年の節目に胡氏をしのび、中国政治の今を読み解く糸口にしたい。そう考えた私が現地で直面したのは、執拗(しつよう)な尾行と夜通しの監視を受ける暗然とした現実だった。
「歴代の党指導者で胡耀邦が最も人心を得た」。そう評したのは建国の父、毛沢東の秘書を務めた改革派の重鎮、李鋭氏だ。胡氏は、毛への個人崇拝が招いた文化大革命(66~77年)で荒廃した社会を再生しようと、政治と民衆が思いを一つにした時代を象徴する人物と言える。
胡氏は15年、一世代上の毛沢東と同じ湖南省に生まれた。10代で入党し、革命に身を投じた。文革後、実権を握った鄧小平の下で、市場経済を導入する改革・開放路線をけん引。政治改革に取り組み、言論の自由に一定の理解を示すなど社会に新しい風を呼び込んだ。
文革などの政治闘争で打倒された人々の名誉回復に尽力した功績も大きい。習近平国家主席の父、習仲勲元副首相も窮地を救われた一人であり、仲勲氏は胡氏の理解者として改革路線を支持し続けた。
◇悲劇の引き金 改革派指導者の死
ただ、胡氏の晩年は不遇だった。民主化を求める学生に理解を示したことなどから、鄧小平を含む党長老や保守派との対立が深まり、87年に総書記を解任されて失脚。89年4月15日、心臓発作のために73歳で急死した。
学生らが胡氏を追悼しようと天安門広場に集まり、民主化要求の声が沸騰した。「動乱」と断じた鄧小平が軍の投入を決断し、6月4日の天安門事件の悲劇が起きた。
「胡耀邦は民を救おうとした理想主義者であり、鄧小平は党を救おうとした現実主義者だった」。後年、胡氏の遺族がそう語るのを聞いたことがある。国民に深く愛されていたからこそ、一人の政治家の死が歴史的大事にまで発展したのだろう。
その墓は共青城市の小高い丘に建てられ、周囲は自然豊かな「陵園」として整備されている。胡氏の遺志をくんだ夫人の願いでゆかりの深いこの地に埋葬された。同市は55年、100人足らずの若者が荒れ地を切り開いて誕生した。党の青年活動に長年取り組んだ胡氏は終生、この街の発展を気にかけ、「共産主義青年の都市」を意味する地名の名付け親になった。
◇墓参後の執拗な尾行と夜通しの監視
命日である4月15日の朝、記者が現地を訪ねると、新緑に覆われた美しい景色の中で、制服や私服の警官たちが厳重な警戒態勢を敷いているのがひときわ目を引いた。
管理事務所の職員によると、遺族らが墓前で追悼式を開いているため、一般人の立ち入りを一時禁止しているという。「しばらく待てば入れる」と言われ、周囲に目をやると、墓参に訪れた人々が列をなしていた。胡氏を慕う人が今なお多いことを実感した。
結局、入園できたのは昼過ぎだった。事前に外国人は受付で名前やパスポート番号の登録を求められ、園内では職員らが張り付いて離れなかった。胡氏の肖像が刻まれた墓石の周囲には「写真撮影は禁止」との標識があった。
「陵園」を離れた後、尾行されていることに気付いた。市内を散策したり、食事したりする間、公安関係者とみられる男たちから車や徒歩で絶えずつけ回された。声をかけても、身分や目的を明かそうとはしなかった。
宿泊したホテルでは部屋の出入りまで監視された。深夜に、ドアののぞき穴から外の様子をうかがうと、向かいの部屋のドアが開いていて、そこで男が不寝番をしていた。
「胡耀邦」という存在の複雑さを思い知らされた異様な体験だった。
共産党は、胡氏の功績を否定してはいない。生誕100年にあたる2015年には、習氏自ら記念座談会を開き、「一生を党と人民に捧げた」と称賛した。有力な党指導者に限られる公式の言行録も出版されている。
政争に敗れて失脚した胡氏を再評価する背景には、国民に根強いその人気を「党の輝かしい歴史」に取り込み、一党支配体制の安定に役立てようとする意図がうかがえる。
一方、胡氏を公式にたたえながら、外国人記者の墓参を極度に警戒する矛盾は、天安門事件との関連だけでなく、胡氏が目指した国家像そのものに理由があるように思う。
◇逆行する「改革」の行方は
「党は民衆に上から指図する権力組織ではない」。そう主張した胡氏は政治生命をかけて個人や党への過度な権力集中を防ごうとした。
文革の反省から党幹部の定年制導入を推し進め、82年の憲法改正では国家主席の任期が「2期10年」に制限された。党からの分権を主張し、行政や経済、司法、言論の独立性を高めようとした。
対照的に習氏は「一切を党が指導する」という毛沢東の言葉を用い、自らを頂点とする党への集権を目指した。歴史を逆行するように国家主席の任期制限を撤廃し、最高指導者の終身制に道を開いた。
両者は共に政治体制の「改革」を掲げながら、その方向は正反対に見える。
中国政治は時代に応じて「放(自由化)」と「収(引き締め)」の間を振り子のように揺れ動くと言われてきた。
胡氏の死と天安門事件から35年を経て、巨大国家は右肩上がりの時代が終わる重大な転機にある。7月に開かれる党の重要会議「第20期中央委員会第3回総会(3中全会)」はまさに今後の「改革」のあり方が焦点となる。
過去を振り返ると、78年の3中全会で改革・開放路線の導入という歴史的決断が下された。経済の停滞で強権体制のゆがみが表面化する今、政治の振り子がどう揺れ動くのかに目をこらしたい。【中国総局長・河津啓介】
6/1(土) 9:30配信 毎日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/d8402329d526b271a99b3589dcf616680773bdbf
今回は、記事は少し長めのものを出した。同時にあまり関係がないのに第一次天安門事件(1976年事件)も紹介した。
天安門広場というのは、その時の為政者に対抗した政治家を追悼するという場所になってきている。毛沢東に対して周恩来がその立場にあったということになるしまた、鄧小平に対して胡耀邦がやはりその立場になった。そしてその人々が死んだ後に、多くの人々がその人を追悼するということになる。
「追悼する」と簡単に言うが、単純に言えば、「その時の国家のトップである毛沢東や鄧小平に対して、不満のある人々が、他の為政者を望むということを態度で示す場所」ということになっているのではあるまいか。そのように考えれば、天安門に集まる人々に対して、政府が監視をし人民解放軍を差し向けてでも鎮圧するということがよくわかる。そして1989年の6月4日以降、天安門広場は、中国共産党に対抗する民主派の象徴的な場所になっているといえる。基本的に「反政府集会」を表立ってできないので、政権の中枢にいた人物を追悼するということで人が集まるということになるのではないか。
まさに民主派の人々の象徴となった場所においてその時の不満が集まる場所となっている。現在の政権でいえば、当然に習近平に対しての不満は非常に大きくなっている。そして、その習近平に対抗する勢力として李克強国務院総理がいたのであるが昨年10月に亡くなってしまっている。習近平政権は、11月に行われた李克強氏の追悼が反政府集会にならないように非常に警戒していたが、今回の6月4日においても、その追悼集会などを厳しく取り締まる形になっている。なぜか日本の左翼集団や野党の人々は、このような言論の自由がなく、そして、そこに武力を用いて鎮圧する態度を全く非難しないということになっており、彼らの主張が薄っぺらいモノでしかないということが何となくすぐわかるのではないか。
さて、毎年この時期になると、中国人の人々が「天安門事件の回帰」ということで、様々な投稿を行う。もちろん、中国ではそれをすべてチェックしているのであろう。ロシアではウクライナ戦争(ロシアでは戦争と主張しているので)に反対したり、軍に出征した家族に会いたいと主張するとスパイ扱いで逮捕されるということになっている、一方プーチンという独裁者に対抗したヒーローとしてワグネルの創設者であったプリゴジン氏が神格化しているということになっている。
今回の中国に関しても、習近平の圧政が強くなればなるほど、多分、李克強氏やそのほかの習近平に対抗した人々の「神格化」や、亡くなった人の追悼ということが増えてくるのではないか。逆にそのようなことを取り締まりながらも、政権は政治を改めようとしないということも確かなのである。
現在の中国は民主化に逆行しようとしている。そして軍隊を動かすことに徐々に躊躇がなくなってきている。そのことをどのように考えるのか。そして隣国の日本として、何を考えるのか。日本人は、その中国の実態をよく知るべきであろう。
0コメント