「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 まだ伏線を敷いているドラマ
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 まだ伏線を敷いているドラマ
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、適当に感想を書いている。正直なところ、平安時代のこの時代に関しては、あまり調べたこともないし、また、あまり得意な分野ではないのであるが、しかし、その内容に関して一つの作品として、または小説として、ここで話してみたいと思う。
はっきり言って、この辺のところ、つまり紫式部の若いころ、そして藤原道長の若いころというのは、様々な人の日記があるくらいで、その中に式部のことなどはあまり書かれていないので、基本的には創作の部分が少なくない。しかし、これを完全に「創作」と言ってしまっては単純に批判にしかならない。そのような人は、見なければ良いとしか思わない。そのようなものではなく、この内容に関して言えることは、「後の人間関係を見て、そのように至る道筋をつける」ということになる。
歴史というのは、ある意味で記録は「点」で残っている。ある日にこのようなことがあり、そしてそののちのある日に、この人がこういうことをしたというような感じである。1000年も前の事をそのように点で記録されているだけでもすごいことだ。はっきり言って私の名前などは1000年後に名前が残っているはずがないと思う。
その点と点をうまく結ぶ内容を、人間であれば、そして当時の日本人であればこのように考えたであろうというように考えるし、また、その内容をまた見てくると言ことになるのである。
さて、今回出てくる「源倫子(黒木華さん)」、土御門源氏の姫君であり、後の藤原道長(柄本佑さん)の正室である。この源倫子と紫式部であるまひろ(吉高由里子さん)徒の中が悪くライバル関係であるというような感じであれば、後の関係はない。今までのない世であれば藤原道長がまひろに対して淡い恋心を抱いているということになっており、そこに嫉妬心のような物を持っていれば、複雑な三角関係になる。しかし、そのような感じではな「超越した」感覚を持っているからこそ、この三人の関係が成立する。そのような「後の関係」を意識した人間関係の伏線がしっかりと書かれているということが今回の面白さではないか。
【光る君へ】初登場・黒木華の倫子に「まさに平安顔」…姫たちの華麗な着物姿“女子会”に「眼福だー!」の声も
女優・吉高由里子主演のNHK大河ドラマ「光る君へ」(日曜・後8時)の第3話「謎の男」が21日、放送された。
今回、自分のせいで放免に捕らえられた道長(柄本佑)を心配するまひろ(吉高由里子)。しかし、父の為時(岸谷五朗)に謹慎を強いられたため、ただ案じることしかできない。
兼家(段田安則)の指示で道兼(玉置玲央)は女官を使って帝の食事に毒を仕込み、円融天皇(坂東巳之助)は急激に体が弱っていく。政権を掌握するために二の手を打ちたい兼家は、ライバルの左大臣家の動向を探るため、為時を利用してまひろを間者(スパイ)として送り込むというストーリーだった。
(以下、ネタバレがあります。ご注意下さい)
今回、為時の指示で左大臣家の動向を探る目的で左大臣家の娘・源倫子(黒木華)らとの歌を通じた集まりに参加させられた、まひろ。
後に道長の妻となる倫子の美しい着物姿に「倫子、いかにも貴族で上品」、「華ちゃんのルックス、まさに平安顔」などの今回、初登場の黒木への称賛の声が集まった。
さらに倫子、まひろを中心とした、それぞれ色鮮やかな着物姿で「偏継ぎ」(漢字の偏と旁=つくりを合わせる遊び)に興じる女性たちの姿に「お姫様がいっぱい。眼福だー!」「絵に描いたような女子会、雅やかだね」などの声も集まった。
一方で次々と「偏継ぎ」の正解を口にし続ける、まひろの姿に「ヒヤヒヤする」、「まひろ、空気読めないな~」、「接待できないタイプの主人公」などの心配の声もあがった。
平安時代の女性たちの美しさに称賛の声が集まった今回。放送中にはX(旧ツイッター)のトレンドで「 #光る君へ」のワードが1位に急浮上した。
大河ドラマ63作目となる同作。吉高は2014年に連続テレビ小説「花子とアン」のヒロインを演じており、朝ドラと大河の両作品の主演は4人目になる。
脚本は2006年の大河ドラマ「功名が辻」やドラマ「セカンドバージン」「大恋愛~僕を忘れる君と」「星降る夜に」などを手掛けた大石静氏が担当。大河の中でも数少ない平安時代を舞台に、世界最古の女流作家とも呼ばれる紫式部/まひろ(吉高)の生涯を描く。音楽は冬野ユミ氏、語りはNHKの伊東敏恵アナウンサーが務める。
2024年01月21日 20時45分スポーツ報知
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12265-2750012/
創作というのは、完全なファンタジーを作るということではない。当然のことながら、紫式部が魔法を使ったり、あるいは藤原道長が住まをを使うような話は全くないのである。しっかりとした「時代背景」があり、その中であっておかしくないこと、他の記述などに矛盾しないことをしっかりと書くというような感じになる。そのように考えれば「蟻姉いことの排除」ということと、今の常識では考えることのできないことをが常識であった場合に、それを違和感なく演出するということが重要になってくるのではないか。
そのように考えた場合、例えば今回「天皇の食事に毒を盛る」ということがあり、それに対して「邪気払い」を陰陽師がするということになる。薬師などがいながら、当時の医療の主力は「祈祷」であり、その祈祷によって徐々に良くなってゆくというような感覚がある。その感覚徒実際の毒を盛るということがあり、そして、その毒に関して藤原実資(秋山竜さん)が大膳所を刺殺に行くというような場面がある。まさに、「女性の場所」に男性が見分に行くというような感覚の違和感をうまく見せており、なおかつ、安倍晴明の祈祷を多くの人が頼りにしているということがうまく描かれている。
まあ、その祈祷に関して、安倍晴明がかなり「うさん臭く」演技が出てきておりその様なところで現代の感覚とうまく整合性をつけている演出になっている。
さて今回問題になるのは「まるで現代劇ではないか」というような声が多いところであろう。せっかく女優や俳優を使っているのに、扇で顔を隠してしまっているというのはいかがなものかということもある。しかし、本来は女性は男性の前では扇で顔を隠していて、不特定多数の男性に顔を見られてしまっては、出家する以外にはないというような感じになっていたはずである。その辺のところを完全に省いてしまっているというようなところもあり民俗学的におかしな話になっている。その辺の整合性をつけるのに、藤原道長が庶民の暮らしを垣間見ていたというような感じにしていたのであろう。しかし、その辺はもう少し丁寧にした方がよいのかもしれない。同時に顔を見てのひとめぼれというのも基本的にはないはずええあるから、その辺の出会いというのも考えたほうがよい。
逆にそのような文化性があるから「女子会」というような集まりになっていたのかもしれない。その様に見ていれば、その部分に何か作者の意図が隠されるようになるのではないか。その様な見方をしてみればよいのではないか。その辺の内容が楽しみである。
0コメント