「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 「ドラマ」の世界で際立つキャラクター
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 「ドラマ」の世界で際立つキャラクター
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、適当に感想を書いている。正直なところ、平安時代のこの時代に関しては、あまり調べたこともないし、また、あまり得意な分野ではないのであるが、しかし、その内容に関して一つの作品として、または小説として、ここで話してみたいと思う。
実際に、大河ドラマに対する批判として「史実と違う」というような批判をする人がいる。はっきり言うが「史実とは何か」という定義をしっかりとしてほしい。史実とは「日本の歴史の権威たち(学会など)」が文部科学省と一緒になって、当時の記録の中で「第一級資料」というものを決め、その内容を解釈し、その他の資料で補充しながら「後になって認定」したものである。
私は法学部なのであえて法律の用語を使うが、「真実と事実は違う」という言葉がある。ここで言う「事実」とは、「事件が起きて何年もしたのちになって、裁判という場所の中で、様々な当事者ではない弁護士や検事や証人と言われる人が介入し、議論しそのうえで、その議論の内容によって裁判官が認定したもの」の事を、少なくとも法律の世界では言うことになる。そのことから判決が出る時に「事実の認定」ということが出てくるのである。しかし、それは、当時とは異なることああり、証拠の中で使用できるものと使用できないものがあったり、認定したものとしていない者があるなどの事で、全てが後講釈でしかない。そのように考えると、「本当にあったこと」という「真実」とは全く異なる場合があるのだ。そのように異なるから、一度判決が決まった者であっても「再審理」などが発生する。最近の事件で言えば「袴田事件」などがその中に入る。
たった数十年前の事件であっても真実がわからず、事実が後になって認定しても、それが間違えていることが少なくないのである。はっきり言って千年前の「真実」がわかるはずがないのである。
要するに、「史実」とは、「後講釈でこのような事であったと考えられる内容」でしかない。その内容を基にドラマを作るということになるのであるから、わかっていることの間をすべて「ドラマ」要するに「創作」でつなげるしかないということになるのである。まさに、「光る君へ」はそのようなドラマになっているのではないか。
光る君へ:まひろ母の死から6年 “あのときの従者”は消されていた! 手を下したのは…「いちばん怖いのは道兼より兼家」
俳優の吉高由里子さん主演の2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」(総合、日曜午後8時ほか)の第2回「めぐりあい」が、1月14日に放送され、主人公・まひろ(吉高さん)の母・ちやは(国仲涼子さん)の死から6年後が描かれた。
第2回では、ちやはの死因を隠した父・為時(岸谷五朗さん)との関係が冷めきる中、まひろは代筆仕事に生きがいを感じていた。一方、道長(柄本佑さん)は官職を得て、宮仕え。姉・詮子(吉田羊さん)は、円融天皇(坂東巳之助さん)との間に皇子をもうけ、道長の一家は権力を拡大していた。
その権力を、さらに強固なものにしようとする道長の父・兼家(段田安則さん)は、道兼(玉置玲央さん)を連れ、ある都が見下ろせる場所へ。兼家は「我が一族は常に都を見下ろしておらねばならぬ。それにはお前(道兼)の力が欠かせんのだ」と口にした上で、帝の食事に薬(毒)を入れるよう道兼に命令する。
「命を取ってはならぬ」とあくまで気を弱らせ、天皇の座から退位させることが目的だという兼家は、道兼に「そのようなことを成すのがお前の役目だ」と告げ、その理由を明かす。
兼家は、道兼がちやはの命を奪ったことを指し、「6年前に家の名を汚した。そのことをわしが知らぬとでも思っておったか。高貴な者は自らの手で人を殺めぬ。その掟をお前は破った。お前を守るため、わしはあのときの従者を始末した。お前のおかげでわしの手も汚れたのだぞ」と説明。道兼も必ずやり遂げることを兼家に誓うしかなかった。
SNSでは「え、従者の人始末されたん」「あの時の従者も、そんなことになっていたとは。気の毒すぎる」「可哀想な従者…」「次男の悪行バレてる~しかも従者も…」などと視聴者は反応。「道兼ひっで!となった1話だが、2話で兼家がさらに極道だった」「兼家パパ怖い。何でも知ってるし何でもする」「いちばん怖いのは道兼より兼家説」「兼家怖いわー! いちばん怖いわー!」「雅じゃなく、ドロドロな平安時代」といったコメントが書き込まれた。
「光る君へ」は63作目の大河ドラマ。脚本を、2006年の「功名が辻」以来、2度目の大河ドラマ執筆となる大石静さんが手掛け、きらびやかな平安貴族の世界と、懸命に生きて書いて愛した女性の一生を映し出す。
2024年01月14日 MANTANWEB編集部
https://mantan-web.jp/article/20240114dog00m200027000c.html
第1回の、まひろ(紫式部)の母ちやは(国仲涼子さん)が、藤原道長の兄道兼(玉置玲央さん)に殺されたというのは、まさに、創作の世界であり、多分どこの記録にも入っていない内容であろう。正直なところ、何かに掛かれている可能性もあるが、しかし、少なくとも多くの人が「史実」というような形になっているものではない。
そもそも、平安時代の女性の話などは、しっかりと記録に残っているものではなく、「まひろ」という名前であっても、その通りの名前であったのかどうかは不明であろう。まひろという名前であったというようなことは、私は専門ではないにしても、聞いたことはない。しかし、作家としては「わからない」から、「自由に創作できる」のであり、だから「ドラマ」ナノである。ドラマに関して「史実」を知りたいのであれば、歴史書を読めばよいし、または紫式部日記などを読めばよい。そうではなく、あえて「現代のドラマ」を見ているということはそういうことであろう。
逆に言えば「創作」であるということは、「後の人間関係や事件の伏線」担っていることがあり、そのような意味で言えば、まひろ(吉高由里子さん)が、藤原道長(江本拓さん)という、後の最高権力者にとりいり、そして保護されるということがどのような意味になっているのかということが見えてくるのではないか。お互いが子供のころから惹かれ合っていて、身分の違いや母の死の深層ということがあり、お互いの気持ちがついたり離れたりしながら、しかし、お互いが気になって、そして関係が続いて行くというような感覚になるのではないか。
そしてそのような関係があることが、初回の冒頭に安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)が「不吉な予兆」ということにつながるのではないか。そのように見れば、ある意味で非常に面白い感覚になってきていると言うことになるのである。そこにも伏線があるということが出てくる。
合戦のない大河ドラマにおいて、そのような人間関係が様々に出てくる。その部分が捜索が多いということになるが、ドラマというのは「歴史を題材にして、現代の人に何を訴えるか」ということであり、その意味では、「人間関係の伏線」をしっかりと見せながら、男女の関係やそこおける権力の在り方などを見せてゆく手法は、なかなか面白いのではないか。そして、その意味では、「あまりにも極悪非道な人間」というような道兼のようなキャラクターも際立って見えることになるのである。
今後もなかなか面白い感じに見えてくるのではないか。
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