「宇田川源流」【宇田川版教育論】 「不登校になる大半の責任は親に」発言に関する是非
「宇田川源流」【宇田川版教育論】 「不登校になる大半の責任は親に」発言に関する是非
今週の水曜日は「宇田川版教育論」をお届けしたい。少し前の記事であるが、その内容を見てゆきたいと思うからである。教育とは「国家百年の大計」といわれるほど重要な内容なのであるが、残念ながら戦後の日本はこの教育を軽視してきてしまった。本来日本で大事な内容であるはずの「忠孝」とか「仁徳」とか、そういった内容やあ、日本という国のすばらしさをしっかりと見る内容が全く見えてこないということが最大の問題になってきているのではないか。
さて今回は教育の基本はどこにあるのかということを考えてみたい。教育とは「親つまり家庭が行うもの」なのであるか、あるいは「教育が滑降などの教育機関で行うもの」なのかということが議論になる。このような議論が不毛なのは「教育」ということの定義が全く異なるということであり、その内容を統一しないで何かを言うことがおかしな話なのではないか。日本は一つの単語で複数の意味を持つ場合が少なくない。そのことは、例えば「自由」という単語であっても「freedom」と「liberty」というように二つの単語の意味が存在するように、一つの単語の中に様々な意味を包含することができる言語であるということが言える。それは、会話の中の流れや行間、または一つのコミュニティとしての社会が共通の認識を持つので、その内容がお互いに基本的には誤解がないようにできているということが、その言語的な大前提にあるということになるのではないか。
逆に「教育」という単語の意味を、このように書かなければならないということが、そもそも昔からある日本のコミュニティ社会が崩壊している証拠なのかもしれない。
そこであえて教育ということを考えれば、「教育」といえば「学業」と「修身」というように別れる。現在でいえば「学業」と「人間性」という方がわかりやすいのかもしれない。またこの二つにかかわることで「生き方」「考え方」というようなことをいう場合があるのだがそのような「方法」を学ぶというのは、その双方に関係があるということになるのではないか。日本ではこれだけなのかもしれないが、本来は「軍隊」「宗教」「民族」「イデオロギー」というようなところも学ぶことになる。その辺までの教育がちゃんとできているか、そしてそれがすべて学校だけで言えるのかということになる。
「不登校になる大半の責任は親に」→「謝罪する必要ある?」 市長は後日謝罪も…「発言は撤回しない」 滋賀・東近江
17日、フリースクールの存在を認めた文科省に対して批判する発言をした滋賀・東近江市の小椋正清市長。「不登校になる大半の責任は親にある」との発言もあり波紋を呼んだ。市長は27日、フリースクールの関係者などに謝罪したが、“制度の問題点を指摘しただけ”だとして、自身の発言自体の撤回は否定した。
フリースクールめぐり市長が謝罪
フリースクールへの発言が批判を浴びている、滋賀・東近江市の小椋正清市長(72)。
小椋市長は17日に、「文科省がフリースクールの存在を認めてしまったことに、がく然としている。良かれと思ってやることが、国家の根幹を崩すことになりかねない位の危機感を持っている」と発言。さらに、「不登校になる大半の責任は親にある」との発言もあった。
そして、18日には「親の責任は大きいですよ。それは私の感覚的なもの」と述べた。
また24日には、「私が言いたかったのは制度の問題。それはしっかりと説明させてもらえたら…なんで謝罪する必要があるの?」と話していた。
そして27日。小椋市長は、フリースクールの関係者などに「大変傷つけた」と謝罪した。
しかし、発言自体は「撤回するわけにはいかないと、最終的には申し上げた」と、制度の問題点を指摘しただけだとして、撤回を否定した。
フリースクールあるのに「市内にない」と発言
一方、市長のフリースクールへの認識不足を示す、こんなやりとりもあった。
25日、小椋市長は「東近江市は(フリースクールを)支援していないが、支援する必要がないのではなく、(市内にフリースクールが)ないから、していない」と発言した。
すると、職員が横からささやいた。
そして、「(フリースクールは)2つあるって。これは私の勉強不足、認識不足。すみません」と謝罪した。
そんな東近江市長をよそに、フリースクールの関係者は30日に会見を開き、滋賀県知事らが、支援について協議をすすめる方針だと明らかにしている。
(「イット!」 10月30日放送より)
2023年10月31日 14時10分 FNNプライムオンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/25267581//
あえて言うが、学業というものと、人間性というものに関してはそれぞれであろう。それらの人間性までを、すべて教育するということになれば、各家庭の価値観ということになる。そのように考えれば、各家庭の価値観を学校の集合教育で学ぶということは不可能であろう。
さて、「不登校になる大半の責任は親にある」ということがある。もちろん現在の人々にはいろいろな意味で受け入れられない可能性がある。単純に言えば「共働きなのに、家庭の教育に責任を持たされる」などということはできるのかというようなこともあれば、「責任とはどういうことだ」ということがあるのではないか。しかし、今や社会的に標準になっているのかもしれないが、残念ながら、そもそも「共働き」ということじたいが以上であるということを考えるのである。本来であれば「家を守るために働き、収入を得る」というはずが、いつの間にか「自分の権利」つまり「社会的な地位や名誉」ということまたは「自由の時間や自由にできる収入」ということがその共働きの内容になっているのではないか。そして、その権利意識などから主客逆転になってしまい、そのことから、いつの間にか家庭が崩壊してゆくということになるのである。
本体は「家庭を守る責任」があり、その責任に付帯して義務が存在するのであるが、残念ながら、その「責任」を負うべきというような主張があればそこに反発するというこちになる。要するに、そのことがわかっていながら、全く話にならないのである。
フリースクールに関しても同じ考え方だ。学業をある程度行うというとと「生きるすべを学ぶ」ということと「社会性を学ぶ」ということはすべてが異なる学びであるが、残念ながら、その区別もつかない人が多い。
そのようなことをしっかりと家庭の中で考えなければならないのではないか。そのような「家庭」とか「教育」とか「次世代」ということを言うことはわかるが、残念ながら、そのことを実感としてしっかりとした実態に結びついていない。今回の内容が良いかどうかは別にして、または表現がよいかどうかは別にして、家庭側にも大きな問題があるのではないか。
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