「宇田川源流」【GW特集 日本語論文のススメ】(6) 文章の苦手な人の文の書き方
「宇田川源流」【GW特集 日本語論文のススメ】(6) 文章の苦手な人の文の書き方
今までプロットとかそういうことをしてきましたが、多分この文章を読んでいる人の中には「そんなことじゃなくて、そもそも日本語の文章を書くのが苦手なのだ」という人がいるのではないだろうか。そこで、そのような人のために、「文章を苦手な人」の為の文章を記載してみるということにしよう。自分で自分の文章を書くことができると、それはそれで今までと異なった内容になってくるのである。
★ 文章が苦手な人の書き方
さて、文章を書くのが苦手な人がいる。今までも何人も「文章を書くのが嫌い」という人は少なくない。しかし、そのような人の中にもいくつかの累計がある。
一つ目は「そもそもコミュニケーションが苦手」という人がいる。
現在の若者のなかには、この類型が非常に多い。基本的に「文語体」と「口語体」の区別がうまくつけられなかったり、文章でもうまく慶悟が必要というようなことを考える人が少なくないのです。このコミュニケーションが苦手な人は、基本的には「人と日との間」ということがうまく取れないということであり、その人間の距離感をつかめないので、どのようなコミュニケーションをとるべきかよくわからないということになるのです。つまり、文章そのものが問題なのではなく、また日本語そのものが問題なのではなく、人と話すということが苦手なのである。
このような人の場合、だいたいの場合、「自分の妄想の中の相手」がある場合が少なくない。このようなことを書くと「危ない人」「痛い人」のような感じが出てくるのであるが、実際の場合、アニメや本、ドラマなどに影響をされ、自分がその中の主人公や登場人物になって「あこがれる役割になった自分」があり、その口調で、その役割になりきって話をした場合は、基本的に話もできるし、そのセリフに近い内容で物事もできるのである。しかし、実は本人が考えているほど、そのような「妄想の中に生きる」人は少なくないし恥ずかしいことではない。人間は何か自分に対して影響力が強いものに対sて、影響されてしまう場合が少なくない。任侠映画を見てきたおじさん(特に昭和の時代など)が、なぜか威勢よく肩で風を切って歩いているのは、そのような影響の産物なのである。しかし、「オタク」という言葉が出てきてから、そのような人は「恥ずかしい」「痛い」と思ってしまい、自分がうまくコミュニケーションが取れなくなってしまう場合が少なくない。特に、自分のコミュニケーションが、そのようなものに影響されていないかどうかがなかなか判断着かなくなってしまい、そのことによってなかなかコミュニケーションを自分から控えてしまう場合が少なくないのである。
このような人は「自分だけではない」と自覚することによって簡単に直る場合が少なくない。もっと単純に、「自分流のコミュニケーションのオリジナル」が出来てしまえば、すらすらと話せるし、文章も書けるようになる。このような人の場合は、自分自身の心が問題なのである。
二つ目は「文字を書くのが苦手」という人がいる。
この類型の人は「話すのは得意」ということがあり、小学校頃の国語の授業にトラウマがある場合が多い。ある意味で、「漢字がうまく書けない」とか「表現がうまくない」などの事を他人に言われて、そのことを心に病んで言葉をうまく書くことができないというような感じになる。恥ずかしい思いをしたという記憶から逃れれば、大したことではないのである。
さて、現代の人々とは異なるが、豊臣秀吉も文字を書くのは苦手であったという。もちろん彼の場合は、若い時分にあまりまともな教育を受けてこなかったからであり、また、日本の当時の貧農はそれが普通であった。しかし、そのまま天下人になってしまったので、なかなか困ったようだ。その時に「醍醐の花見」をやるという。しかし、その「醍醐」という字が書けなかった時に、秀吉は「大五」を書いたという逸話が残っている。冬至字が書けなかったというのが400年を超えてこのように語り継がれてしまうことは、恥ずかしいことなのか、それともそれほどの英雄であったという証拠であるのかはよくわからない。しかし、いずれにせよ「文字を書きたくない」というのは、昔も今もそれほど変わりがないのかも知れない。
三つめの類型は「どう書いてよいかわからない」という人がいる。
この類型が、実は最も多いのかもしれない。
さて、突然ではあるが「日記」を書いたこと(日記は「つける」というのだが、今回はあえて書くというように言ってみた)はあるだろうか。もしも書いたことがある人は、その日記が「誰かに読まれてもよいように」書かれていること、または「将来の自分が読んで恥ずかしくない」というような感じになっているということに気づくのではないだろうか。実際に「日記」などは、基本的にはだれも他の人が読まないという前提であるにも関わらず、なぜか「第三者に見られてもよいような文章」や「内容」になっていることが見えてくるのではないか。
まさに「どう書いて良いかわからない」というような話は、実は買いたいことがあるのであるが、その内容を「文字にして残してよいかわからない」というような心理になっている。なかなか本音を出すことのできない人と言えば、それまでであるが、実際には、「何か隠さなければならないことがある」とか「本音で書くと自分以外に傷つく人がいる」というような形なのではないか。
このような類型の人は、基本的には「まずは本物を書いてみる」ということが重要であり、心の中を全てまずは出して見て、それから対処する(編集するなり、まずい所を削るなり)というようなことをすることでよいのである。
四つ目の類型には「書くことが面倒くさい」という人がいる。
この類型の人は、どうにもならないということになるのではないか。まあ、個の類型も少なくないのであるが、しかし、そのような場合も一応書かなければならないということになる。
★ ICレコーダーなどの利用
さて、上記に四つの類型を書いたが、どれも基本的には書きたくないということには変わりがない。そのうえ、この人々は「全く話すことがない」とか「話したくない」というようなことではなく「文字にするのが嫌」とか「面倒」とかということになる。ついでに言えば、「文字として残したり、他人の目に触れるのが嫌」というようなことなのかもしれない。そのように考えた場合、プロットを書いた後、そのプロットに書いた「道筋」に従って、自分の考えを「口で話して見る」ということが最も良い。
その話した内容をICレコーダーで録音し、それを「文字お越し」するということで、文字化し、それを改良するということが最も良い方法である。最近では音声を文字化する内容もそれほど悪くない状態になっているので、それなりに使う。ある程度文明の利器を使うことは悪くないことなのではないか。
基本的に、「音声」から「文字」にするのは難しいが、「文字」から「文字」に変えるのはそれほど難しい内容ではない。それを上記の「文字化が苦手な理由」をうまく意識しながらしっかりとやってみればよいのではないか。
しあkし、その様にしても、なかなか文章がうまくゆかない場合が少なくない。文字化しても「プロットを読み上げる」だけになってしまうことが少なくないのである。これは、道筋を守ろうとして、「文章を膨らませる」というようなことができないのである。そこで、次回は、その「文章の膨らませ方」を見てみたい。
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