「宇田川源流」【日本万歳!】 個人的なことですが母校が二位に復活した箱根駅伝
「宇田川源流」【日本万歳!】 個人的なことですが母校が二位に復活した箱根駅伝
毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしているのであるが、今回は少し趣向が違うことになるのかもしれない。なぜ「日本万歳!」ということにするんかと言えば、箱根駅伝というイベントが毎年恒例の「風物詩」であるからに他ならない。風物詩(ふうぶつし)とは、ある季節特有の現象、文化、味覚、生物、物売りなどであり、その季節をより意識に特徴づけることができる、物・事柄のことである。箱根駅伝というのは、毎年1月2日に東京の読売新聞社本社前からスタートし箱根の芦ノ湖まで、そして、翌日1月3日に箱根芦ノ湖から同じコースを通って、東京の読売新聞社本社前までの構想になる。往路と復路、それぞれを5区に分けて、20の大学(オプションとして代表校以外のセンバツで学生連合が出る)が競争する。
今年が99回目、そして来年が100回目となる。まさに日本の風物詩でありなおかつ毎年恒例ということでもある。徐々にテレビが「製作費が無くなった」ということから、毎年恒例の番組が無くなっていった。例えば、私の幼い時にやっていた「芸能人かくし芸大会」などはそのようにしてなくなってしまったのである。そのように考えれば、良く続いているというような感じである。そのような中で99回も続いているというのはなかなか興味ぶかい。
しかし、最近の年末年始の番組はあまり面白くない。私自身、どうもあまり見る気がしないので、正月は酒を飲んで寝るか、または普段できない仕事をしていることがほとんどだ。小説を書くための資料の整理や、何かゆっくりと小説やジャーナリズム文書の構想を考えるなどと言うのは、よほど時間があって退屈なときしかできるものではないのである。
逆に、普段はマラソン協議などは見ないにもかかわらず、なぜか駅伝は見てしまう。もちろん私の母校である中央大学が出ているというのもあるが、しかし、それだけでは無く何か面白いのである。まあ、非常に個人的なことであるが許していただきたい。
中央大が総合2位、22年ぶりのトップ3…藤原監督「選手たちは良くやってくれた」
箱根駅伝の復路が3日行われ、往路2位だった中央大は総合2位に入った。
中央大が3位以内に入るのは、2001年の第77回大会(3位)以来。
往路では2区の吉居大和(3年)と3区の中野翔太(3年)が連続して区間賞を獲得するなど各走者が安定した走りを見せ、トップの駒沢大と30秒差でフィニッシュ。4年生4人、3年生1人を配置した復路も大崩れすることなく、2位をキープし続けた。
藤原正和監督は「6区で追いつく、という思いは復路スタート時にあった」というが、総合優勝した駒沢大には1分42秒差をつけられた。「1年間優勝を狙ってきた大学と3位以内を目標としてきた大学の差が出たと思う」と振り返ったが、「選手たちは本当に良くやってくれた。2位という結果を本当に褒めてやりたい」。
10年ぶりにシード権を獲得した前回6位から飛躍を遂げ、出場96回の名門が復活を印象付けた。
2023年1月3日 13時56分 読売新聞オンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/23478639/
【箱根駅伝】駒大・大八木監督の退任に衝撃広がる 「もう一年やってほしかった」「監督ロス」と惜しむ声
今季の出雲、全日本を制した駒大が、2年ぶり8度目の総合優勝を飾り、同大としては初、史上5校目の3冠を達成した。
大八木弘明監督(64)はレース後の会見が終了した後、「私事ですが…」と自ら切り出し、「今年で監督を退きます。3月で終わりです」と表明した。後任は藤田敦史コーチが昇格する。
突然の発表に、ネット上では「そんなの寂しすぎる!!!」「もう一年やって欲しかった」「大八木監督ロス」「有終の美とはまさにこのことか、、」「やめちゃうのかぁ」「あの激が一種の箱根駅伝の名物だったのにー」と惜しむ声が。同大で初めて出雲・全日本・箱根の3冠に導いた偉大な指揮官が去ることに、衝撃が広がっている。
2023年1月3日 15時9分 スポニチアネックス
https://news.livedoor.com/article/detail/23478837/
さて、そもそも「駅伝」とは数人が長距離(長いものでは数百キロ)をリレー形式で走り、そのタイム(時間)を競う陸上競技である。
駅伝競走の各走者は競技用の「たすき(襷)」を身に着けた状態でスタートし、「中継所」またはゴールまでの定められた区間を走り、中継所では前の区間の走者から次の区間の走者に「たすき渡し(タスキリレー)」を行ない、チームとしてのゴールを目指す。公道使用上の制限等の条件により、途中の中継所においてレース先頭からの一定以上遅れたチームでは、前の区間の走者が中継所に到達する前に次の区間の走者が「予備のたすき」を持ち「繰り上げスタート」を余儀なくされる場合もある。この場合でも、前の区間の走者が中継所に到達すれば、繰り上げ後の時間を加算することでチームとしての記録は成立する。チームのいずれかの走者が区間を完走しない場合には、チームとしての記録は不成立となり棄権扱い(記録なし)となる。
競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿の発案で同社が主催し1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる。関西組と関東組に分かれ京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池(しのばずのいけ)までの23区間、約508kmを昼夜問わず走り抜けるもので、先着の関東組がゴールに到着したのは翌々日の午前11時34分であった。この時の関東組のアンカーは、大河ドラマ「いだてん」の主人公であった金栗四三である。このエピソードから金栗氏は「駅伝の父」と言われている。
「東海道駅伝徒歩競走」の開催にあたり、当時の大日本体育協会副会長および神宮皇學館館長・武田千代三郎が競技名を「駅伝」と名づけた。当時江戸時代における東海道五十三次における伝馬制からヒントを得たと言われている。駅伝という言葉自体は、日本書紀にも記載されているほど古いものである。
箱根駅伝は、「地方大会」で、関東学生陸上競技連盟(以下「関東学連」という。)が主催し読売新聞社が共催するとなった大会であり、その内容は東京の読売新聞社本社前から箱根芦ノ湖を往復する者である。1920年に第一回が行われ、1987年からテレビ中継を開始した。1941年から1946年までは戦争の影響で中止になっていたが、なぜか1943年だけは戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。1947年には駅伝大会を復活。初めての予選会(第1回関東大学高専10マイル)を前年12月に実施。読売新聞社が共催に入るが、「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」とGHQからの指導があり、後援となる。
このような歴史をしっかりと積み重ねることができるのが日本ではないか。
その風物詩を毎年正月に味わえるのが、日本の素晴らしい所なのかもしれない。
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