日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄 第三章 月夜の足跡 5

日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄

第三章 月夜の足跡 5


 東御堂信仁の家は、それほど大きくないといっても都内二十三区の閑静な住宅街の中で庭付きの家である。明治時代、天皇東遷と共に多くの公家が一緒に東京に移動してきた。まだ「江戸」と言った方が良かったしまた馴染みもあったのではないか。正確に言えば、天皇が江戸城に移動するのが「東遷」で、江戸城に入ってから「東京」となるという方が正しいのかもしれないが、ここでは東京というように言っておこう。

 明治時代に東京に入った公家たちは、主に佐幕派に属した大名屋敷上屋敷を接収し、そこを住居としてしばらくは生活をしていた。しかし、すぐにこれ等大名家の上屋敷は、江戸城、この時にはすでに皇居となってる場所に近かったことから、様々な役所に変貌していったのである。京都にある時は、現在で言う財務省。当時は大蔵相、その昔は大蔵寮と言われる建物はすべて京都にあったのであるが、それでは仕事にならない。そこで、皇居の近君これらの建物を作ることになる。

 元々「寮」という言葉を使っていたのは、清涼殿などの天皇の住居や天皇の執務室の近くに、一つの建物の中に様々な役所があったので「寮」という言葉を使っていた。軒続きの建物でその中に様々な役所があったという感覚の方が良い。もっとひどい言い方をすれば、律令体制の役所は長屋であったというような言い方をした方がイメージがわくのかもしれない。もちろん語弊があることは承知の上だ。

 しかし、東京に入ってからはそのようなことは出来なかった。なぜならば、全てが薩摩や長州といった西側の大名の下級武士が中心になって国の運営をするということになったのであるから、その人数などは足りるはずがないのである。そこで、大久保利通は「官僚制」を作り、江戸時代のというよりは江戸幕府の武士、つまり旗本や御家人を多く登用し、彼らに実務を行わせることにしたのである。

 江戸幕府というのは、一つには昌平黌などの学問施設が多くあり、その中で、下級武士や郷士などから優秀な人材を登用していたので、様々な意味で人材の宝庫であった。その人材の宝庫を、単純にそのトップが佐幕派であったということを理由に総て解雇してしまう必要はない。そのようにして多くの人材を登用することによって人材不足を補うということにしたのである。

 しかし、つい先日まで敵対的であった、少なくとも敵陣営にいた人々を、政府に登用するということであるから、そこは注意が必要になる。そこで、これ等の「旧幕府御家人の通う政府の省庁」を全て江戸城の内堀の外側に設けることになったのである。そこにあったのが、各大名屋敷の上屋敷ということになる。現在の法務省のレンガ庁舎は、ちょうど桜田門外の変の前に当たり、備中松山藩の板倉家や、米沢藩の上杉家の上屋敷があったところであるし、また、現在の首相官邸は佐賀藩、旧鍋島家の上屋敷になる。

 このことから、旧大名家は全て下屋敷などに引っ越すことになり、また、公家は余っている上屋敷や佐幕派の下屋敷を順次接収し、そこに引っ越したのである。例えば、現在も包丁式で有名な四條家は、市ヶ谷に住居を構えていたのだ。しかし大正時代になって民権運動が大きくなり、徐々に政党政治になってきてからは、公家は特に皇居の近くに住む必要はなかった。火事が多く周辺に小さな町家や学生の寮や下宿などが多く、そのために都心に住むのはあまり良いとはならなかったのである。徐々に明治時代の後半から大正・昭和にかけて、公家や宮家の多くは皇居から離れた土地に転居をするようになる。例えば、朝香宮家などは、自分の言えば白金台の現在の東京都庭園美術館になるが、それ以外に朝霞市の現在の自衛隊駐屯地が朝香宮家の土地となって乗馬の練習などをすることになっていた。その土地に朝香宮家があったために、土地名を「アサカ」とするのであるが、しかし、同じ朝香とするのは不敬であるということから朝霞市というようにその文字を変えたのだ。このほかに家もすべてそのようにして、何かあった場合にはすぐに駆け付けられるものの、普段は閑静な住宅地に広い家を持って過ごすようになったのである。

 その土地はあくまでも「戦後」も個人の所有ということであったが、大を経るごとに「相続税」を取られることになり、さすがに持ちこたえられなくなて徐々に小さくなってゆくが、それでも、周辺の家に比べれば大きな家を持っていた。

 そのようなことは東御堂家も同じだ。

 東御堂家は、現在の当主信仁が本宅にそしてその横に息子の次期当主であろう正仁が住んでいた。信仁の家には、信仁夫妻がいるだけで家政婦などがいるわけではない。その為に、当然にインタネットのことなどはすべて隣の家の息子正仁夫婦やその子供が担当していた。信仁から見れば孫にあたるが、それでも、ネットやコンピューターのことになれば、信仁自身よりもはるかに役に立った。

 そんな感じであったが、嵯峨朝彦は重要な、そして秘密にしたい内容に関しては今回のように直接信仁の家に駆け付けた。決して家が近いわけではない。嵯峨家は、皇居を挟んで反対側の方にあるのだが、それでも、何かあれば信仁の家に来た。信仁の家は、信仁夫婦がいるだけで秘密が守られるばかりか、隣に息子の正仁の家族がいるので、様々な意味で便利である。

「どうした」

 応接室に出てきた東御堂信仁は、部屋着のままゆっくりと奥から出てきた。昔の家であるから、少し涼しい感じがする。奥方が温かいお茶を持ってきたが、そこからの湯気が妙に白く立ち上っている。

「いや、思い出せないことがあって」

 一緒に来た荒川は、外のタクシーの中で待たせてある。ここは東御堂信仁の細君を除いては二人きりである。恥も外聞もなく、幼馴染のままで話すことができるのである。

「思い出せないこと。朝彦には珍しいではないか」

 東御堂信仁は、お茶をすすると、ふと何かを思い出したように、一度立ち上がると横のチェストの中から、ウイスキーとグラスを二個取り出した。そして、それをテーブルの上に置くと、同じチェストの中からチャーチルサイズの葉巻を一本取りだして、火をつけた。普段はあまり葉巻を吸うところを見せない東御堂だが、朝彦と二人であれば、あまり遠慮はいらない。

「お前もやるか。朝彦」

「ああ、一本もらおうかな」

 東御堂信仁は、にっこりを笑うと、もう一本取りだした。嵯峨朝彦も立ち上がると、東御堂の横に立って、その葉巻を受け取った。ライターもチェストの中のライターから火をつけて、また応接セットのソファーに戻った。

「さて、話を聞こうか」

「まず平木が死んだのは」

「ああ、知っている。あいつはなかなかいい男であった」

 東御堂は、そう言うとため息なのか、あるいは葉巻の煙なのか、深く貯めたものを大きく吐き出した。

「平木はどんな人だったのですか」

「あいつは、うちの舎人の家柄だ」

 舎人とは、家の人で様々なことをやる家柄である。下男ともいえるし執事ともいえる。またある意味では私営の警備ということもやっていた。昔の公家は、全て舎人の家柄を持っていて、その家柄が様々なことを行っていたのである。幕末では様々な下級藩士が脱藩して公家の所に来て私舎人の位をもらっていたのである。

「舎人が今の世の中まで続いていたのですか」

「いや、様々な関係があって、皇室の裏の方の仕事をやっていたら、昔の舎人の家柄が集まってきてくれていたんだ。その中の筆頭が平木の家だ。

「なるほどな」

 嵯峨朝彦もため息をついた。要するにベテランの情報員を失ったということに他ならない。

「それで、何を思い出せない」

「なぜあいつらは天皇を狙う」

「要するに、天皇と我々の違いが知りたいということか」

「ああ」

「昔聞かなかったのか」

「親父に聞いた気がするが、忘れた」

「本当に朝彦は・・・。」

 信仁はグラス二つのウイスキーを注ぐと、一つを朝彦に差し出した。

宇田川源流

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