「宇田川源流」【現代陰謀説】 「水と安全と情報は無料」と思っている日本人の根本的な欠陥を露呈した教育
「宇田川源流」【現代陰謀説】 「水と安全と情報は無料」と思っている日本人の根本的な欠陥を露呈した教育
毎週金曜日は「現代陰謀説」をお届けしている。基本的に「情報」ということに関して、その真実性を追求し、そのうえで、その内容をしっかりと考えるということを行っている。
日本のマスメディアは、基本的に情報をゆがめてしまうという癖があるので、その報道内容を信用できないばかりか、そのコメンテーターに至っては本当に困ったもので、ただ視聴者を煽るだけになってしまう。その為にテレビ朝日の番組のコメンテーターは、事実に基づかないことを言って謹慎処分になり、なおかつそれが番組を降板するとかなんとかがネットで話題になっている。はっきり言って、私のように情報に関する仕事をしている立場からすれば、嘘の情報を特に情報を入れるでもなく調べるでもなく、思い込みとあてずっぽうで言うというのは、はっきり言って、誰かに工作を頼まれたという「意図してやっている」以外の場合はやってはいけない。ましてや「報道の場」であっては絶対にやってはいけないことであり、それは、間違ったとか、謝罪したとかそういう状態ではなく、「報道そのものの価値と信用性を下げた」ということではないのか。
今回問題でその「報道全体の信用性」を言うことに言及する人がいない。それが、日本の情報に対する考え方なのであろう。一度崩れた信用というものを、元に戻すのはどれくらいの時間がかかるのであろうか。情報というのは、「信用」と「新規性」である。そのように考えれば、過失であったとしても日本のメディアは情報を大事にしていない、あてずっぽうを報道として使っているというような印象を残し、そのうえ甘い処分で終わるという。つまり「不確かな情報を報道する事が日常的に行われているので処分も甘い」というような状況になってしまう。
何故他の報道機関はテレビ朝日に対して怒らないのであろうか。全く不思議だ。つまり、他の報道機関も「情報や報道をぢ味にしていない」という解釈をされても仕方がないということになるのではないか。
日本人はそれほど「情報」を大事にしていない。よく日本人は「水と安全と情報は無料」と思ていると皮肉を言われる。世界では最も大事で、プライスレスな価値を持つ者に対して、日本人は価値を感じないのである。そのことはどのような結果を生むのであろうか。
共通テスト「情報」無配点は「不適切な入試」 情報処理学会、一部国立大に抗議「看過できない」
2025年の大学入学共通テストに新教科として導入される「情報」(科目名は「情報1」)について、一部国立大学が同科目を配点に加えない方針を示したことを受け、情報処理学会が2022年10月12日に抗議声明を発表した。
発表では、「このような不適切な入試を看過できず、すべての受験科目に適切な配点が行なわれることを強く求めます」としている。
■「すべての受験科目に適切な配点が行なわれることを強く求めます」
国立大学協会は1月28日、2025年の共通テストから、全ての国立大学に対し、従来の5教科7科目に「情報」を加えた「6教科8科目」を課すと発表した。協会は、「情報」について、「大学教育を受ける上での必要な基礎的能力の一つ」と位置付けている。
一方で、北海道大学は9月16日付の発表で、2025年の共通テストにおいて、情報1の受験を課しているものの、同科目の成績は配点しないという方針を示した。成績同点者の順位決定は、個別学力検査などの成績を重視するが、これらの成績も同点だった場合、情報1の成績を活用するとした。
徳島大学も、北大と同様に情報1の受験を課すものの、2026年の共通テストまでは「総合判定の参考」として点数化を行わないとしている。
一部国立大学の方針を受け、情報処理学会は10月12日、「大学入学共通テストで『情報』を必須として課すにも関わらず、配点しないと予告した国立大学があります」とし、不適切な入試を看過できないと抗議した。
続けて「入試科目は点数化してその理解到達度を測定するために課すものであり、配点しない科目の受験を強いるのは、入試の実施根拠そのものを喪失する」と述べ、「高校教育の成果を測定することになる入試において配点しないというのは、高校教育におけるその科目の意義を否定することになります」と主張した。
さらに協会は、原則として共通テストで「情報」を課すという国立大学協会の基本方針を形骸化すると非難し、「すべての受験科目に適切な配点が行なわれることを強く求めます」と締めくくっている。
2022年10月13日 12時55分 J-CASTニュース
https://news.nifty.com/article/technology/techall/12144-1925095/
さて、日本の大学は、「自分たちの権威を守るため」に、大学自体を変える「改革」を行うことができない。そのことが東京大学でも、世界のランキング(イギリスの雑誌社の採点による)で39位となり、日本の教育水準はどんどんと落ちているのである。これは「記憶をマークシートに塗る」という事しかしない、自分で考え、論理的な思考をするというような内容を全く行わない。それなのに、論文入試などに改革するというと「できない」ということを言って改革を行わない状況である。
漫画家の赤塚不二夫は「頭の良い人は何でも簡単に説明する。頭の悪い人が、何でも難しくしてしまう」ということを言っているが、まさにその通りで、「自分の地位を守る」ということに固執するために、結局は何もしないということになる。「改革が必要な時に、何もせずに時を止める」ということは、「罪」であるということが自覚がない。逆に言えば、そのようなわからない人、社会的に不適合な人が、大学教授になっている呂いうことなのである。この人々を変えなければ、つまり、大学から追放しなければ、大学の改革はあり得ない。つまり「日本の教育水準は下がる」ということになる。
さて、情報諸理論は、高校で行っている教科であるが、残念ながらヒューミント情報の扱い方などではなく、コンピューターの使い方、プログラミングというような感じのコンピューター操作の問題である。情報の世界で言えば「シギント情報」の所であるが、まあ、そこまでやるわけではない。しかし、コンピューターの扱いがわからなければデジタル情報を見えないのであるから、なかなかうまくゆかない。これからの時代に生きてゆけないので会うr。
さて、上記の内容を見てわかるように、北海道大学と徳島大学は、情報論を受験させるものの、配点をしないという。つまり「受験はするけれども、評価はしない」という事である。これは、「情報の評価をしない」ということであり、そのまま「徳島大学や北海道大学など治部の国公立大学の教授や事務がコンピューターやデジタル社会に対して理解ができていないために、その必要性や有用性を判断できず、そのことから、徳島大学や北海道大学ではデジタルに関する教育は期待できない」ということを意味しているということになる。今時、デジタル社会に対応していない大学などが存在してよいのであろうか。そのようなところが、大学として存在しえいること自体が、日本国として恥ずかしいのではないか。
さて、これが日本の情報空間であり、なおかつ、大学教育である。まあ、はっきり言って年寄りばかり使っているからこのようになってしまうのではないか。時代に合わせたことができないということも、まさに日本の害悪になっているのではないか。
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