「宇田川源流」【日本万歳!】 政治における言論の自由は「身勝手」でよいのかという議論が起きる日本の政治風土

「宇田川源流」【日本万歳!】 政治における言論の自由は「身勝手」でよいのかという議論が起きる日本の政治風土


 毎週月曜葉「日本万歳!」をお届けしている。日本人のすばらしさや、日本人の感覚などをしっかりと学び、そして同じ日本人の習慣や国民性が我々日本人の「すばらしさ」に繋がっているということを再認識するための連載であると思っている。

もちろん、同じことを見て「不平不満」をいう人もいる。しかし、「足ることを知る」というのは、本来の日本人の価値観であり、その価値観を持っているということ自体が、日本人のすばらしさである。もう一度日本人は日本の原点に立ち返り、そして、日本人としての自覚と誇りを取り戻すべきではないかということが、この中に様々に考えられている。

日本の価値観の中に「社会の目」というものがある。他の言い方では「おてんとうさまが許さない」などというような言い方もあるのであろうか。古い時代劇などにはよく使われた価値観の中の一つなのであるがその価値観の中には「日本人特有の道徳観」というものがある。

もちろん道徳観というものは、様々な違いがある。その違いがあまりないので、「共通の道徳観」が存在するということになるのである。当然に他の国のように様々な道徳感があり、また民族や宗教が入り乱れてしまっている状況になってしまっては、話にならないのであるが、しかし、日本の場合は、環境的な違いはあるが、それも許容範囲でありある程度の想像力と日本人という統一の感覚から同じ道徳観を持つことができる。

その同じ道徳観は「社会の目」として、実は各日本人の「内的な道徳律」ということが存在次、その内的道徳律が同様の価値観を持っているから、第三者が「おてんとうさま」とか「社会の目」というようなことを持ち出してもそれが通用することになる。

最も簡単な例として、ちょっと変な例であるが、壁に鳥居が書いてあると、そこにゴミを捨てたり立小便をしてはいけないということになる。しかし、これが異教徒であれば、そのような感覚にはならないし、また、偶像であるといえば、イスラム教殻は攻撃されてしまうことになる。しかし、そのような鳥居の絵が無くても「ここでそんなことをしたら迷惑でしょ」ということだけで、そもそも道徳が成立する。要するに「鳥居の絵」は「内的道徳律の象徴」でしかなく、そのことそのものに意味はない。しかし、そのような道徳律が存在することが日本人のすばらしさに繋がっているのである。

N党・立花孝志氏「報ステ」“一発退場”の一部始終…“放送事故”起こした発言には賛否両論が

<言論の自由を守るとルール無視は違う><NHKよりも先にテレ朝をぶっ壊してどうするのか>──。16日夜に放送されたテレビ朝日「報道ステーション」の“放送事故”をめぐり、ネット上で賛否両論が飛び交う事態となっている。

 同番組ではこの日、参院選(22日公示、7月10日投開票)に向けた党首討論が行われ、自民党総裁の岸田文雄首相ら9党首が出席。“放送事故”が起きたのは「国民の安全をどう守る?」とのテーマが提示された時だった。

 大越健介キャスターから指名され、リモートで出演したNHK党の立花孝志党首が突然、「テレビは核兵器に勝る武器です。テレビは国民を洗脳する装置です」などと持論を展開し始め、さらに番組プロデューサーから「テーマを逸脱する発言があった場合はしかるべく対応を取る場合もある」との手紙を受け取ったことを明かしたのだ。この発言に対し、大越キャスターが「今の発言は討論のテーマに沿ったものとは認められません」と再三、注意し、直後に立花党首はあえなく“一発退場”となった。

立花氏の発言にネット上は賛否両論

 ネット上では放送直後から、立花党首の発言に対する賛否の投稿が相次ぎ、<国会議員の討論会なのに、事前に発言内容にくぎを刺すとは…><いや、討論会とはいえ、ルールがある。好き勝手に話していいわけがないだろう><立花党首の逸脱した発言は論外だが、『テレビは核兵器に勝る武器』『テレビは国民を洗脳する装置』というのは含蓄がある>などと論争になった。

 第二次安倍政権以降、国会でも野党議員の質問と関係ないことをグダグダと答弁する閣僚や官僚の姿が当たり前の光景になったが、衆参両予算委員長も報ステの大越キャスターのように毅然とした態度で閣僚らをビシッと叱ってほしいものだ。

2022年6月17日 10時45分 日刊ゲンダイDIGITAL

https://news.livedoor.com/article/detail/22350600/

 さて、政治に関しては二つの価値観がある。一つは「政治家なんだから国民に自由になんでも訴えるべきである」ということであろう。当然にこれは「政治」に限ったことではなく、日本国民はすべての面において「言論の自由」があり、その自由を最大限に発揮できるべきであるという価値観である。当然に、何かを訴える時にその制限は存在しないということは、ある程度の所で出てくるべきであろう。

一方で「議論や討論はルールを守るべき」ということがある。ある程度の人々がいる場合には、その人々の中においてある程度のルールと秩序が必要であり、そのルールと秩序を守って、多くの人が快適に、そして平等に権利を享受できる環境を作る努力をしなければならないということに他ならない。ある意味で「社会」におけるルールを守るということは、そこに参加している人すべてにおいて共通の道徳律であり、その道徳を守ることが、社会全体の利益になるということだ。

その上で一つ目の「言論の自由」ということと、二つ目の「討論のルールを守る」ということは、前者が「個人の権利の充足」であり、二つ目が「社会的な利益の充足」ということになる。その二つの権利の充足がなければ、日本という国どころか、その集団(国・村・社会・家族などすべての場において)の秩序が守られることはないということになり、そのことから、様々なことを考えるべきであるということになるのではないか。これに関しては、境界線があることではなく、明確な基準が存在しない。そのことから、どこまでが古人の権利が許され、どこからは社会的なルールの充足が優先されるのかということが、それ時間や表現、手段、など様々な内容において議論が尽くされるべきであると考える。

さて、そのようなことの中から、先日のテレビ朝日の報道ステーションにおける各党党首討論会におけるNHK党の立花代表への処理が議論になっている。

立花代表は、自分の主張である「NHKをぶっ壊せ」ということを国防という話題の中で話をした。まあ、ここは「言論の自由」の範囲であろう。しかし、そこにおいて「討論の話題にあわない」と判断されたところで、打ち切られ、立花代表は退場することになる。この打ち切りと、退場は「社会的な利益の充足」つまり「ルールを守る」ということであろう。

、<国会議員の討論会なのに、事前に発言内容にくぎを刺すとは…>

<いや、討論会とはいえ、ルールがある。好き勝手に話していいわけがないだろう>

<立花党首の逸脱した発言は論外だが、『テレビは核兵器に勝る武器』『テレビは国民を洗脳する装置』というのは含蓄がある>

<上記より抜粋・改行を追加>

さて、これ等の批判はすべて当てはまる。要するにその基準は存在しないということになろう。そのことがこのような「自由な議論」を生む。私個人は、このほかにもう一つ「1分」ということがあったので、「1分は自由にしゃべらせ、討論議題以外の場合は1分で打ち切ればよい」ということを考えているのである。実際にワンイシュー政党には、全体の政策を語ることに限界があり、その時点でこうなることは見えていたのではないか。その内容がそのまま形になったというように考えるべきである。

私が言いたいのは、この二つの価値観が、しっかりと日本人の中にあり、その価値観のバランスが、多少は個人にばらつきがあるものの、ある程度の所で日本人がまとまっているということである。

宇田川源流

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