「宇田川源流」 沖縄返還50年における天皇陛下のお言葉

「宇田川源流」 沖縄返還50年における天皇陛下のお言葉


 今年の5月15日で、沖縄が日本に復帰して50年になります。

 私が4歳のころですから、まだまだ小さかったのですが、それでも意外と覚えいているのが「返還1年」として、例えば自動車道路が「右側通行から左側通行になった」話題や、表記のほとんどが英語から日本になったことなど、様々な話がニュースで取り上げられていました。今のように様々な事を知りませんが、しかし、沖縄が大変であったということから、父親に様々質問をしていたことを覚えています。

 返還に関しては、当然にさまざまな混乱があったと思われますし、様々な戸惑いはあったと思います。しかし、それでも「日本に復帰した」ということの方が大きかったのではないでしょうか。

 このようにして当時は復帰して喜んでいましたし、また、現在も本来、沖縄に関しては「日本復帰」できたことを喜ぶはずなのですが、なぜか必ずしもそのような形にはなっていないということに疑問を持つことがあります。もちろん、沖縄の人々は「基地」ということが嫌であったということは間違いなく、そのことから、日本復帰運動を行ったのですから、確かに基地に対して反対運動を起こすことはわからないではないのですが、しかし、上記にもある通り、沖縄の経済は現在も基地にある程度依存しています。実際に、沖縄に関しては、観光収入と沖縄に誘致された企業ということがあります。しかし、誘致企業といってもなかなかそれが大きな経済的な柱になっているわけではありません。ネット・IT企業の本社やベンチャーなどの誘致をしていますが、しかし、そのこともまだ育っていったわけではないことは間違いがありません。また観光に関しては、もちろん非常に力を入れており、1980年代以降、沖縄に関しては様々な方策がとられていますが、しかし、その沖縄の方策に関してもなかなか三尾結んでいないということになるのではないでしょうか。1990年代に海洋博などがありましたが、実際に、それで残っているのは美ら海水族館くらいであり、そのような施策を後に経済発展に結びつけられていないことが現状ではないかと思われます。

 もちろん、そのようなことはないと観光で頑張っている人も少なくありませんし、また、その経済もしっかりと存在していることは間違いがありません。しかし、コロナウイルス禍下で沖縄経済が停滞はしたものの破綻をしなかったのは、やはり米軍基地経済がある程度あるからであり、コロナウイルス化の「県境をまたがない」というような政策になった場合、観光だけであればより大きな損失になっていたのではないかということになります。

 しかし、それでも基地には反対であるということを言います。一度沖縄に関して、「どのようなことを望んでいるのか」ということを聞いたことがありますし、また沖縄に関して取材しているジャーナリストの人々にも意見を求めたことがあります。その時に言われたのは「沖縄は、結局、自分たちでもどうしたいのかよくわからないのではないか。理想は唐や隋の時代の中国と日本と琉球の関係が理想であるというが、実際にそのようなことができるわけではない。もちろん、基地に反対はしているが、一方で、香港やウイグルのような中国共産主義の下に入るというようなことも嫌がっているということになる。しかし、そのような中で自分たちのわがままを聞いて、補助金をくれるのは日本政府だけであるから、日本政府に対して反対運動を続けてしまっているのではないか」というようなことをいうのです。

 実際に、沖縄の人々は「米軍基地が無くなれば職を失う」という人は少なくありません。北谷などの基地が無くなった後、まずは基地のために土地を接収された人々の保障費が無くなったことから、それで生活できなくなった人も少なくありませんし、また、そのことを前借していた人々が金を返せなくなって破産する企業も少なくなかったのです。そもそも米軍基地が返還された後、地権者の面積を見ると、米軍基地の3倍もの費用が発生していて、それが既得権益として存在していたのですから、本土の人々は驚くほかないということになってしまうのです。

天皇陛下のお言葉(全文)=沖縄復帰50年

 沖縄復帰50周年に当たり、本日、沖縄と東京をオンラインでつなぎ、記念式典が開催されることを誠に喜ばしく思います。

 先の大戦で悲惨な地上戦の舞台となり、戦後も約27年間にわたり日本国の施政下から外れた沖縄は、日米両国の友好と信頼に基づき、50年前の今日、本土への復帰を果たしました。大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は「ぬちどぅたから」(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。

 本土復帰の日、中学1年生であった私は、両親と一緒にニュースを見たことをよく覚えています。そして、復帰から15年を経た昭和62年、国民体育大会夏季大会の折に初めて沖縄を訪れました。その当時と比べても、沖縄は発展を遂げ、県民生活も向上したと伺います。沖縄県民を始めとする、多くの人々の長年にわたるたゆみない努力に深く敬意を表します。

 一方で、沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。

 美しい海を始めとする自然に恵まれ、豊かな歴史、伝統、文化を育んできた沖縄は、多くの魅力を有しています。沖縄の一層の発展と人々の幸せを祈り、式典に寄せる言葉といたします。 【時事通信社】

2022年05月15日 14時49分 時事通信

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12145-1633390/

 そもそも、沖縄返還は佐藤栄作が頑張ったことになっていますが、しかし、実際に動いていたのは他の人々です。そもそも「戦争に勝って、アメリカ人が多くの血を流して取った領土をなぜ変換するのか」という議論はかなりさまざまな意味でありました。そのような疑問をすべて外すのが「沖縄返還の皇室策動」です。つまり、昭和天皇の思し召しによって、多くの人々が沖縄返還に関して動いたということになります。実際に動いたのは、東久邇盛厚氏(旧皇族)と四條隆貞氏(旧華族家)です。この内容は一昨年薨去された東久邇信彦氏と、四條隆元氏より、様々な写真とともに話を聞いていますので、間違いはない話でしょう。

 東久邇家は、第二次世界大戦時に海軍参謀本部長であり、実際には真珠湾攻撃などを主導した一人であります。もちろん皇族であることから、責任を負うということはありませんが、しかし、軍人の中に多くの皇族が入っていた当時では、当然にその参謀の中には皇族の人々が入っており、東久邇宮稔彦親王は、その重責を担っていたということになるのです。そのようなことから伏見宮系列は、皇族として墓地意をはく奪されて、民間として動くことになりますが、その「民間」としての地位をうまく利用し、アメリカとの間に交渉を持ち、数々の内容をこなしていたのです。

 その内容を具体的に動かしていたのが、四條隆貞氏です。この二人は様々な事をして戦後史を動かしています。例えば、宮内庁は当時天皇陛下が相撲を見ることを反対していました。「陛下の目前で裸の者が汗を飛ばしてぶつかり合うなど野蛮なことを行うなど、許せない」というものでした。そこを東久邇氏が、陛下に直接「相撲は面白いですよ」という話を死、そのことから陛下が相撲をご覧になるということにつながるのです。そのようないきさつから現在も天皇陛下の座席は「汗が飛ばない二階席」なのです。これは巨人戦も同じで、それが長嶋茂雄の展覧ホーマーにつながるのです。

 今上陛下は、そのような歴史を多分御存じなのであろうと思います。いつものようにお言葉を抜粋するなどという不敬なことはしたいと思いませんが、基本的には、陛下は「まだ沖縄には課題がある」というご認識であるということをおっしゃられております。そのように考えれば、我々が行わなければならないことは、「国民の真の意味での統一」であり、また「心理的なわだかまりの解消」であると思われます。そのことを我らがしっかりと考えるということを天皇陛下が明言しているのではないでしょうか。

 皆様も、このお言葉を見て、様々な事を考えてみていただければと思います。

宇田川源流

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