日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄 第一章 朝焼け 3
日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄
第一章 朝焼け 3
「席は空いているかな」
京都の柳馬場通り。古く織田信長が朝廷に行くときにここを馬に乗って通ったという伝説からその名がつく通りであ。そのために「柳馬場通り」と呼ばれるのは丸太町通りから五条通りまでの間でしかない。古く平安京では「万里小路」と言われていた通りである。
京都の遊郭といえば、「島原」といわれている。これは、現在の山陰線丹波口から南のあたりである、観光資源として島原大門が残されている。しかし、島原に遊郭が整備される前、豊臣秀吉の時代には、二条通との交差点付近に『二条柳町』という、京都一、言い換えれば当時日本一の遊廓が設けられた。
これは、このあたりに武家屋敷が多く、戦国時代の前には、古くは紀貫之が、室町幕府の二代将軍足利義詮、三代将軍足利義満、四代将軍足利義持もこの辺りに屋敷を構えていたため、この辺りは高級武士が多く、遊郭に通う武士も少なくなかった。その名残からか、江戸時代には米沢藩の上杉家や秋田班の佐竹家の京屋敷が軒を連ねていた。現在は、そのような面影もなく、通常の住宅街や、個人経営に近い商店、建設会社などが軒を連ねている。
柳馬場通り五条というと、現在で言えば、地下鉄烏丸五条駅からすぐである。しかし、東御堂信仁の言った「右府」というバーは、万寿寺通りを超えたくらい、正式な住所は五条ではないようである。それも柳馬場通りから少し路地を入った所に入り口がある。
「見ての通りガラガラですわ」
バーテンなのか、店長なのか、全くわからないがカウンターの中にいる者が不愛想に声を上げた。やせていて神経質そうな黒縁の眼鏡をかけた男である。なんとなくバーテンダーにしては固い雰囲気のある男である。言葉も関西の方言ではある者の、柔らかい感じの京言葉ではなく、関西の武士言葉、摂津の法の方言に近い。
「ここには、国酒はあるのかな」
嵯峨朝彦は、奥から二番目のカウンター席に座ると、そのバーテンダーに声をかけた。
「日本酒でしたら、いくつか種類がございますが、何かお好みがありますかな」
「御堂という酒はありますかな」
「いや、申し訳ありませんが、御堂という酒はお取り置きございませんが」
「ならば惣花を」
「かしこまりました」
バーテンダーは、奥に入ると、一合の徳利とぐい飲みを朝彦の前に置いた。ここまでは、東御堂信仁に教えられた通り、バーテンダーとやり取りをしている。
ぐい飲みを見ると、そのぐい飲みの底に『東御堂』と描かれている。ここも打ち合わせ通りだ。嵯峨朝彦は、そのぐい飲みをその場で伏せた。
「あなたが嵯峨朝彦殿下ですか」
バーテンダーは、全く嵯峨朝彦のことなど気にかけた封もなく、グラスを磨きながら、つぶやくように言った。
全くよくできている。東御堂信仁は、この「右府」というバーを中心に京都と東京で情報を収拾する活動を行っている機関があることを、先日夕陽の尚公会の中で嵯峨朝彦に伝えた。そして、その連絡方法を教えたのである。完全に洋風のバーでカウンターに座り、日本酒をオーダーする人は少ない。しかし、それでは全くいないというようにはならないので、それだけでは怪しまれてしまう。そこでまずは架空の「御堂」という酒を言い、その次に実在する「総花」という酒を注文する。その時に、話ができるようであれば、東御堂と書いたぐい飲みを、その時話せないようならば、「総花も品切れで○○日に入荷予定」という暗号が出る。了解すれば「五十鈴川」と注文、そうでなければ、ウイスキーをオーダーして帰るということになる。
なお、ここで使う「惣花」と「五十鈴川」は、実在する酒の銘柄で、いずれも皇室が宮中儀式の時に使う酒であり、なかなか手に入るものではない。つまり、この二つの銘柄の酒を、メニューも何もなく、さっと言えるのは、皇室ゆかりのものがほとんどである。また、この二銘柄の酒は、ほとんど世の中に出回らないので、その意味でも、バーでこれを注文する人などはいないのである。
しかし、東御堂信仁はそれでも信用せず、とっくりとぐい飲みで酒を出すということをした。そもそも冷や常温の日本酒を徳利で出すことは少ない。基本的にはマス酒、あるいはマスの上にグラスを置いた「こぼし」という注ぎ方をしてサービスする。熱燗でもないのに徳利を使うことはほとんどないのだ。そして、そのぐい飲みの底、要するに他の客には見えない位置に「東御堂」と記載を付け、それを見ないように伏せるというところまでを暗号にしたのである。
このバーテンダーは、それでも慎重な人間らしく、全く素知らぬ風でグラスを磨きながら声をかけてきたのである。
「ああ、いかにも」
バーテンダーは、やっとにっこり笑うと、朝彦が伏せたぐい飲みをもう一度表に返すと、そこに徳利の酒を入れた。
「君は」
「東御堂信仁殿下の被官、平木正夫と申します」
平木という男は、それでも誰かに見られていてもよいように、酒を注ぐ時を除き、常にグラスを磨き、うつむき加減に話をしていた。
「平木殿」
「ここではマスター、またはヒラマスと読んでください」
「ヒラマス?」
「はい、平木マスターが略されてヒラマスです」
朝彦は、声には出さなかったが、なるほどと感心した。『ヒラマス』と言われているということは、東御堂信仁の配下には、他にもマスターとかバーテンダーというような場所があり、その人間たちが多くいるということを意味する。他にも「マスター」がいるから「ヒラマス」というように、マスターを区別する言い方があるのだ。この一言だけでも、東御堂信仁の持つ情報網がかなりしっかりしたものであることがうかがえる。
「ではマスター、次に信仁からあなたに聞けといわれたことを聴くことにする。まずは、何故京都なのだ」
とにかく、まずは何故自分がこのように京都に来させられたのかが知りたかった。いや、何か巨大な危険が皇室に迫っているのであろうことはわかっているし、また、東御堂信仁がそこまで動けないということもなんとなく見えていた。最近弱くなってしまっているし、天皇や皇族の呼び出しも多い東御堂ではなかなか身軽には動けない。そのために、嵯峨家が手伝うことになったのであろう。
しかし、東御堂信仁からの情報はそれだけなのである。
「そうですか、嵯峨殿下はまだ何も聞かされていないのですね」
「ああ、そのとおりだ。でも信仁の頼みだからとりあえず飛んできたんだ」
朝彦は、そういうと、注がれた常温の「総花」を飲んだ。毎年儀式のために作る酒であって、それほどおいしいとか深みがあるというような酒ではない。しかし、その酒の味は、皇族である嵯峨朝彦にしてみれば、どこか懐かしい香りが口に中に広がった。
「惣花、決しておいしい酒ではないですが、別な意味で深みがありますよね」
ヒラマスは、そういうと小さな自身のコップにウイスキーを注いだ。全く嵯峨朝彦の言葉に応えるという物ではない。しかし、『惣花』という酒のことを言いながら、皇室のことを何か言っているのに違いないのである。では、それは何か。
しかしストレートに聞いても、このヒラマサという男は簡単に話すような性格ではないことも、朝彦は感じ取っていた。
「おい、私にもそれをくれるかね」
「ウイスキーは有料ですが」
「しっかりしてるね」
嵯峨朝彦は、にっこり笑うと頷いた。
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