「宇田川源流」【土曜日のエロ】 吉原の遊郭はきらびやかな世界であったと表現して何が悪いのか?そのうえで影まで表現することが我らの使命ではないのか?
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 吉原の遊郭はきらびやかな世界であったと表現して何が悪いのか?そのうえで影まで表現することが我らの使命ではないのか?
今週も土曜日のエロの日になった。まあ、今年も今日を含めて3回しか土曜日が無くなってしまった。その次の土曜日はなんと1月1日の元旦なのである。まあ、曜日の並びから考えて、今回は25日の土曜日までしっかりと「エロ」ができるのではないかという気がして、少し面白いし、新年も1月8日はもう普通に戻っているであろうから、新年初めの土曜日もエロが書けるということになる。
まあ今年の年末、そして来年の年始も、毎年と同じように「10大ニュース」と「年初放談」を行うつもりなのであるが、まあ、なんといってもニュースがないというのが残念なところだ。この年末になっても、全く年末らしくはないし、また、年初の内容も、「新たな年」という感覚がないのでなかなか予想もたつものではないのである。
さて、そのような中で今週もネタを考えなければならないのであるが、今週のニュースといえば、アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリアの北京オリンピック「外交ボイコット」である。まあ、要するに外交官などが行かないということなのであり、政治家は今回の内容に関して中国を訪問しないということになる。
これとは別にニュージーランドはさりげなく「コロナウイルス対応で外交官を派遣しない」と表明。まあ、どうせやるならばしっかりと選手もボイコットすればよいのであるが、その辺がバイデンの弱いところであろう。同時に「政治は人権問題を重視しているが選手は人権は関係ない」というような国家の意志として分離してしまう感じが見えてくるのではないかという気がしないでもない。
要するにバイデンには、そこまでの国民のコンセンサスを得られる力がないということなのかもしれない。何か「人権をうるさく言う人」がいて、面倒だからそれを塞ぐために外交だけなんとなく行うというような感じになってしまう。アメリカがどのようになれば、他もそれで追随するという感じであろう。
まあ、弱腰外交は、このようなところで大きな問題を作ることになるのではないか。そして、その辺の不満がより大きくなって、アメリカの民主党政権は大きな戦争を余儀なくされるようになるのだ。
さて、そのように考えてみると、同様に「歴史上の出来事」を現代の観点で解釈してよいのかということも大きな問題になる。例えばアメリカの初代大統領リンカーンは、我々はアメリカ建国の父であると思うが、なぜか「現在の価値観で奴隷を使っていた」ということで排斥する運動が起きている。時代的な背景などを無視して、現代の感覚で当時の人権問題を語ることは、そのまま、歴史の冒涜ではないかという気がする。ありのままを受け入れてしっかりと解釈すべきものが歴史であり、その歴史を踏まえて、現在から未来をどのように動くのかということが最も大きな問題ではないのか。
吉原遊郭を「煌びやかな世界」と紹介 江戸東京博物館に批判、「不適切だった」と謝罪
「鬼滅の刃」遊郭編の舞台にもなった吉原遊郭を「煌びやか」と表現したことは不適切だったとして、江戸東京博物館公式ツイッターが2021年12月8日に謝罪した。
■「煌びやかな遊郭の世界をご覧ください」
江戸東京博物館は、東京都墨田区にある東京都立の博物館だ。「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」をうたう。
同館のツイッターは12月6日、5日に放送が始まったアニメ「鬼滅の刃」遊郭編と絡めて、館内の展示について次のように告知していた。
「元禄期の吉原の風物を描いた『吉原風俗図屏風』。吉原は歌舞伎やドラマ、漫画でも題材となることが多く、最近ではアニメ #鬼滅の刃 遊郭編の舞台にもなっています。煌びやかな遊郭の世界をご覧ください」
この投稿で、遊郭を「煌びやかな世界」と表現したことについて、一部から疑問や批判の声が上がっていた。
「遊廓を煌びやかなんて言葉で現せられるものでしょうか」
「遊廓を『煌びやかな世界』と肯定的に紹介することには疑問を感じます。享楽する側の視点で描かれていることにも言及すべきではないでしょうか」
■「不適切でした。お詫び申し上げます」
こうした指摘を受け、江戸東京博物館は8日にツイッターで謝罪した。投稿ではまず、
「当館の展示では吉原が江戸文化の形成に大きな役割を果たした『表』の面と経済的な理由から身を売らざるを得なかった遊女たちの苦しい実像という『裏』の面、両面を紹介しています」
と説明したうえで、
「12月6日の『吉原風俗図屏風』を紹介したツイートで『煌びやかな遊郭の世界』の表現は不適切でした。お詫び申し上げます」
とした。ツイートには、吉原で働く遊女たちの労働環境などについて触れた「吉原の一日」「遊女の実像」の資料も添付されている。
2021年12月09日 11時09分 J-CASTニュース
上記に書いたのはアメリカの「アメリカ自虐史観」として、ニューヨークタイムズの人権派が起こした内容であり、歴史を真摯に受け止めその上に立つことができない、歴史を修正しようという人々が現在のアメリカの政治基盤を完全に失わせようとして行っている内容の一環であるとされている。
さて、同様のことが「男女平等」ということでも行われている。過去に、一夫多妻制や、その前は通い婚であったということは歴史的な事実で、現在に生きる我々はそのことを変えることはできない。
しかし、なぜか、その現実を直視することを拒み、現代の価値観で解釈して現代の善悪で当時を図ろうとしている人がいることをいかに思うであろうか。私個人としては、そのようなことをするということは、将来、現代に生きる我々が、現代の環境や持っている情報から判断し、そして正しいと思って行動していることを、未来の、現代ではわからない常識や価値観で全否定される可能性があるということを意味しているのである。それが良い事なのであろうか。
歴史というのは、本来、過去のあったことを、なるべく過去のその当時の価値観や社会風俗、習慣に合わせて解釈し、そして、そのことの功と罪をしっかりと見極めた上で、功を残し罪をなくす方法を、そこからの歴史の流れから得た知恵で克服し解決するためのものであり、そのために、歴史的な事実は直視しなければならない。
それは吉原の遊郭(本来は京の島原・江戸の吉原・大阪の新町が三大遊郭であるが)であっても同じことである。
実際に、当時は幕藩体制であり、また農業改革なども起きていなかったことや、江戸時代には途中で米本位制から貨幣経済に変わったことで農民が困窮することが少なくなく、そのような意味で「農民のセーフティーネット」的に遊郭が存在していたことは間違いがない。
ある意味で社会保障の観点がなかったし、またそのような時代背景でもなかったのであるから、仕方がない。もちろん現在のフェミニストはそのような「必要悪」も認めないのであろうが、しかし、逆にそのようにして「買われてきた女性」に対して、それを飼い殺しにしてしまうことよりも、「きらびやかな世界で目立たせ、そして身請けされて大店に嫁ぐ」というような道もあった訳で、そのような意味では貧農にあって、餓死するよりもはるかによい道であったことは間違いがない。
逆に言えば「そのような影がある、そして影の闇が濃いだけに、より一層きらびやかな世界にしなければならない」のであり、現在はよくわからないが、昔の芸能界、まだ芸能人が「河原者」と呼ばれていた時代の芸能人も、プライベートがボロボロで銀幕や舞台の中で輝いているという人は少なくなかったのではないか。
そのような歴史や社会環境全体を論じることなく、「きらびやか」という言葉だけで非難をしているのは、そのような時代背景がありなおかつその時代背景の中で様々なドラマがったことを全て包み隠してしまい、歴史から葬り去る愚かなことではないか。そのような世界がないように、売春防止法がありなおかつ社会福祉を充実させる歴史になっているのではないか。そのようなことは全く評価できないのであろうか。
売春というのは世界で最古の「商売」であるという。当然に、人間は快楽を求めるものであり、その快楽に対して金銭を払うことにあまり抵抗がない。そのことを現代のフェミニスト的な感覚で、否定することには、どうも歴史の冒涜でありなおかつ人間の欲求や欲望という動物的本能の否定であるようにしか見えない。そのようなことで、正しい、人間らしい感情を持った人間が育つのであろうか。
「土曜日のエロ」は、エロいと思われる歴史も批判にかまわず、しっかりと受け止めるべきであると思うし、また、江戸東京博物館もしっかりとそのような反論をしてもらいたいと思うものである。
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