日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄 序
日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄
序
「失礼します」
重厚な檜の扉を開くと、、茜色に染まった世界が朝彦の目に広がった。普通の人であれば、その場で少しめまいを覚えるほどの強い光が、今まで立っていた高級ではあるが暗い絨毯の敷かれた廊下にも差し込み、光の帯で照らしていた。そんなに広くはないが、それでも横にはビリヤードの台が置かれ、いくつかの書架が置かれた部屋の中には、メンバーが休めるように黒牛の皮でできた高級なソファが、茜色に染まる部屋に唯一抵抗するように、漆黒の影を作っていた。
「トモさんか」
ソファの中の、もっとも窓に近いソファの背中から、細く弱々しい、酷くしわがれた声が、やっと茜色の強い光に負けない程度の大きさで、朝彦のところまで届いた。そちらの方に目を向けると、そのソファの背中から、茜色に染まった紅葉か楓のような、何か落ち葉のような手の影がひらひらと、多分手招きをしているように動いていた。朝彦がが、すでに何回もこのシチュエーションにあって、これが自分を手招きしている合図であると知らなければ、見落としてしまうかもしれないような小さな動きである。しかし、その枯れ葉が舞うような動きは、妙に印象深く朝彦の脳裏に焼き付いた。朝彦は、誰もいない部屋に向かって恭しく頭を下げると、もう一度廊下に誰もいないことを確認して、檜の扉を締めた。そして、滑るように絨毯の上を動くと、ソファの斜め後ろに立った。
「ごきげんよう。座ったらどうか」
「ごきげんよう。そのようにさせてもらいます。」
朝彦は、すぐに座るのではなく、一度サイドボードの所に行くと、少し濃いめの水割りを二杯作り、そして、ソファに腰を掛けた。高級なソファは身体の重さに従って、包み込むように体が沈む。朝彦は、沈み込むのに任せて、体重をソファに預けた。
目の前には東御堂信仁が座っていた。もうかなりの年齢になるはずであるが、いまだにここにきて矍鑠としている。ダークスーツに身を包んでいるが、西側の窓から差し込む夕陽に、その色もすべて変えてしまい、信仁自身が茜色に染まっていた。しかし、部屋の中全体が茜色になっていても、信仁の存在感は別格であった。それもそのはずである。東御堂家は、敗戦後皇籍を離脱した旧宮家の中でも格が高く、特に信仁は先代の天皇の娘の子、つまり先代の天皇の孫にあたる人物に当たる。今上陛下から見れば、普通の臣下の言い方をすれば「甥」に当たる人物であり、年齢が近いこともありまた、一般社会のことがあまりわからない今上天皇から相談を受けることもある人物であった。
「朝さん、忙しいのに悪いね」
信仁は、朝彦の持って来た水割りのグラスを持つと、そのグラスを回して、カラカラと氷の音を楽しんだ。朝彦はその姿を見ながら、信仁に持って来たグラスよりも濃い目に作った自分のほとんどロックに近い水割りに口を付けた。
上下関係がしっかりしているようにみえるが、嵯峨朝彦も旧皇族である。旧皇族の中では、まずは年齢順に、そして今上天皇との血の近さから、自然と序列ができる。しかし、その序列は本人同士の間にあるだけの話で、一般の人々にしてみれば、全く関係がない。一応長い歴史の中で、そのような序列をしっかりと作っていた方が、彼らにとって楽なのである。
そのように近い存在であるからこそ、二人で暫く水割りを楽しむだけで、何も言わずにグラスの中で茜色の氷がウイスキーの水割りになじむのを待っていた。
「今日はどうしました」
かなり長い時間、といっても70を超えた酒好きの二人が水割りを一杯飲むのにそんなに時間が必要な訳ではない。この無言の時間の間に、お互いがあまり長い言葉を使わなければならない説明を、顔色と飲み方で深刻さを計ることが習慣になっていた。それだけに、朝彦にとっては、今日の話があまり良い内容ではないことは、よくわかった。
「夕陽がなあ、歪んで居る」
信仁は、いつもの事ながら、抽象的な物事しか言わない。同じ皇族であっても、性格は様々である。信仁も昔は何でも話す明るい性格であり、今も明るい性格で飲めばカラオケも歌うような人である。しかし、ことが皇室や今上天皇に関わることになると、急に抽象的な事しか言わなくなる。特に、それが良くないことであれば、なおさらだ。
皇室は古い伝統が残っている家である。その意味では悪いことに関して大騒ぎしてしまえば「言霊」によってその災禍が皇室に降りかかってしまうのではないかということになる。そのような考えもあって、問題があったり将来の見通しが悪いことに関しては、抽象的で直接的な言い方はしないことが東御堂信仁の習慣であった。あとは、その言葉を聞いた人が察するようになっていたのである。
「西ですか」
信仁は、微かに頷くと、また水割りを飲みながら、ずっと夕陽を凝視していた。また、暫く無言の時間が続いた。徐々に夕陽が沈み、前のビルの陰に隠れ、部屋の中がやっと茜色から元の蛍光灯の色になった。それでも信仁は、夕陽を刺すような眼差しで見ていた。既に七十歳代も後半になっている信仁の中のどこにそれだけの力があるのであろうか。その目の力で相手を射殺せるくらいの力がこもっている。いや、夕陽は信仁の力で落とされたのかも知れない。
「もう一杯くれるかな」
今度は朝彦が黙って立って、サイドボードに向かった。グラスはたくさんあるので、新しいグラスに水割りを作るのである。朝彦はまたグラスを二つ持ってきたが、朝彦の手元には今度はロックグラスになっていた。
「ロックか」
「はい。少し酔わないと聞けない話みたいなので」
「いや、舎人に話さなければならないのだが、舎人もなかなか大変で」
舎人とは、皇室の中で天皇や高貴な人々のこまごまとしたこと、特に護衛や雑用を担当する。奈良時代や平安時代には、貴族の子弟が舎人になって様々な雑務を行っていたが、時代が進むにしたがって、舎人の家柄が世襲されるようになり、皇室には特別な舎人が存在した。特に、江戸時代から戦前にかけては、皇室の護衛だけではなく、名誉を守ることや、反皇室の組織などを滅ぼすことなども行い、また皇室が仕掛ける工作などもこの人々が行っていたのである。
戦後はそのような組織はないことになっている。しかし、それはあくまでお「なっている」という言葉でしかない。
「内舎人を使いますか」
内舎人は、皇室の舎人の中でも位の高い舎人であった。しかし、戦後は「内舎人」とは、各宮家などが自分で雇っている舎人の事を言っていた。しかし、一般の民間人が舎人などを雇えるはずがない。また戦後の皇室予算では、そのような人員を養うことはできない。それでも内舎人を組織できるようなところがあったところが、日本の皇室や華族の不思議な所である。
内舎人という言葉に、信仁は、しばらく悩んでいる様子であった。
「水が違うからな」
「しかし、信さん。今は都も水が切れていますよ」
皇室の水というものは特別である。現在では「風水」などといって「気」を読むようなことを言い、その形が星形になっているなど、様々なことを陰謀論に結びつける人がいるが、実際に日本の神道の世界では、穢れを落とすものは水である。しかし、最近京都も地下鉄などが施設されて地下水脈が切れてしまっている。しかし、東京ほど悪い水ではないのである。
信仁は「東京の出身や東京で集まったものは信用できるのか」ということを言っているのに他ならない。これは東京の人々ということではなく、「公家の血筋のものでなくてよいのか」という意味に他ならないのである。
「信さん。もうそんなことを言っていられる時代じゃないよ」
「まあ、そうかな。朝さん。時代は変わったな」
信仁は、また水割りを飲んだ。
「それほど深刻なのですか」
朝彦は、待ちきれず聞いた。しかし、その言葉に、信仁は何も言わずに首を横に振った。これは「NO」のサインではなく、答えたくないという意思表示である。
「朝さん、とにかく西だ。京の柳馬場通りに『右府』というバーがある。そこに協力者がいるから、東御堂から来たと伝えてくれ。ごきげんよう」
信仁は、そういうと、それ以上は語らないということで、席を立った。
既に、夕陽は沈み、旧華族会館「尚公会」の入るビルの外はビルの灯りが明るくなっていた。
0コメント