「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 24時間テレビと重なっても大健闘した渋沢平九郎の最期
「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 24時間テレビと重なっても大健闘した渋沢平九郎の最期
水曜日は大河ドラマ「青天を衝け」についてお話をしている。先週と今週、回数で言うと第24回と第25回の2回がオリンピックとパラリンピックの間に挟まれた感じになり、その間にちょうど戊辰戦争が挟まる形になる。その戊辰戦争も先週の第24回は、前回も書いたが、戊辰戦争そのものの描写は全くなく、その代わりに、戊辰戦争の様子を知らせてくる手紙と、その手紙を読んでの表情という感じで出てくることになる。それに対して第25回である今回は、帰国した渋沢栄一に対して、日本のそれも昔からの知り合いが、渋沢にその様子を話して聞かせるということになる。
その話の内容から、徳川慶喜がどのようになったのか、またその徳川慶喜とともに日本にいた渋沢栄一の兄弟や親族たちがどのようになったのか、ということをしっかりと描写する形になっている。戦いそのものの描写はほとんどないのであるし、そのような場面の画の作り方はしていいのに、その戦い言葉と、数人の場面描写ですべてわかるようになっているというのが、なかなか面白い。この辺の描写のすばらしさ、画面の作り方は「さすがNHK」といえるものではないか。
その中で、「幕末の幕臣の混乱」ということがしっかり描かれている。
幕臣たちにとっては、幕府というものは絶対であったのだと思う。そしてその幕府の信用を掲げれば、多くの人が付いてくると考えていた。実はこの辺は徳川慶喜が将軍になってしまったことの悲劇であるともいえる。幕府に関していえば「旗本」「御家人」という直参はあった。しかし、将軍家の元である一橋家には直参の臣はほとんどいない。御三卿は、江戸城内の屋敷を持ち、そこを家として、あとは天領などの中から飛び地で領地を持っていたのであるから、旗本御家人などの直属の部下は少ないということになる。一橋家は、十四代将軍家茂の時代、京都に同行するのに「直参がいない」ということから、水戸藩から兵を借りて京都に上ることになる。この時に「攘夷派の中心」であった水戸と、「攘夷はあきらめざるを得ない」と考えていた慶喜の考えの違いが大きく、それを問題視して平岡円四郎や原市之進が身内に暗殺されるということになるのである。
そこを危惧した平岡円四郎が生前「直参を増やす」ということで渋沢などが兵を集めることになるのだが、それはもともとは農民である。つまり、農民から即一橋家に採用され、数年で将軍直参になってしまうのだ。それを「地元に錦を飾る」という感じで思っていた人々は、すべて戊辰戦争以来の問題が理解できないうちん薩長と新政府になってしまう。そこで、将軍家の復活と徳川の信用の回復ということにこだわるのである。
これは新撰組などでも同じ現象が起きているので、なんとなく感覚的にわかるはずだが、もともとの身分が低い人が将軍直参や幕府直参になった場合に、忠誠心を示すために、最後まで頑張ってしまい「引き時」が見えなくなってしまうのである。
まさに、そのような幕臣の混乱が、うまく書かれているのが印象的であろう。
大河「青天を衝け」第25話は12・0% 「24時間テレビ」フィナーレと激突 番組最低も健闘
俳優の吉沢亮(27)が主演を務めるNHK大河ドラマ「青天を衝け」(日曜後8・00)の第25話が22日に放送され、平均世帯視聴率は12・0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが23日、分かった。日本テレビ「24時間テレビ」フィナーレと重なったため、第12話(5月2日)の13・4%を下回り、番組最低を更新。例年、「24時間テレビ」とぶつかった時の大河ドラマの視聴率は苦戦しているが、18年「西郷どん」(8月26日、第32話)の10・4%、17年「直虎」(8月27日、第34話)の11・2%に比べると健闘した。
大河ドラマ60作目。大ヒットした2015年後期のNHK連続テレビ小説「あさが来た」などを手掛けた大森美香氏(49)が大河脚本に初挑戦するオリジナル作品。主人公は24年度上期に20年ぶりに刷新される新一万円札の顔としても注目され、「日本資本主義の父」と呼ばれる実業家・渋沢栄一(1840―1931)。幕末から明治へ。時代の大渦に翻弄され、挫折を繰り返しながらも、栄一が青天を衝(つ)くかのように高い志を持って未来を切り開く姿を描く。
第25話は「篤太夫、帰国する」。帰国した篤太夫(吉沢)は横浜で杉浦(志尊淳)や福地(犬飼貴丈)らと再会、幕府が薩長に敗れた経緯や、慶喜(草なぎ剛)や幕臣の動向を聞かされる。さらに、恵十郎(波岡一喜)と虎之助(萩原護)から、成一郎(高良健吾)惇忠(田辺誠一)、平九郎(岡田健史)のその後を知らされる。成一郎らは彰義隊を結成するも、すぐに分裂。振武軍(しんぶぐん)として新政府軍と戦うが、敗戦。激闘の中、平九郎の行方は分からくなり、成一郎は函館へ向かったという。頭の整理がつかない中、篤太夫は故郷・血洗島へ戻る…という展開だった。
8/23(月)スポニチアネックス
https://news.yahoo.co.jp/articles/10c59ab3a2a108a45073476c81fb161a7bc472cd
この幕臣の混乱と同じ内容が、私の書いた「備中松山藩幕末秘話 山田方谷伝」には、労せずして書くことができた。一つは板倉勝静である。やはり幕府を支えた松平定信の孫であるという感覚は、幕府そのものがつぶれるということを山田方谷から聞いていたとしても、その内容を理解できていないということになる。そのことは、徳川慶喜が新政府に恭順の意を示していても、桑名の松平定敬や小笠原長行などと一緒に五稜郭の函館で戦ってしまうのである。これは「幕府」というものを守るということを考えていたのに違いない。そしてもう一人が熊田恰である。板倉勝静の護衛隊長であった熊田恰は、古い価値観を捨てることができず、そのことから、それが犠牲になったということであっても、自らの死をもって様々なものと解決するという方向に話を進めることになるのである。
この板倉勝静と熊田恰に関しては、もともと武士の家柄であったものがその武士の家柄の成り立ちが幕府であるということを知って、その幕府であるという内容から、そのような行動をとった。ある意味で「幕府」に縛られていたと考えるべきであろう。
さて、そのような呪縛から抜け出せなかったもう一人が、渋沢平九郎であろう。
上野の彰義隊に関しては、先週書いたと思う。そこで、今回は渋沢平九郎が死んだ飯能戦争というものいついてちょっとだけ触れておこう。渋沢成一郎(喜作)と天野八郎によって作られた上野彰義隊は、徳川慶喜が恭順の意を表したことによって、内部で分裂する。主力は天野八郎の派閥になり、渋沢成一郎の方は500名ほどの部下で反応に下る。たぶん、ほかのところを本陣に試用としたのであろうが、新政府軍が思いのほか早かったので、反応の能仁寺を本陣にする以外にはなかったのではないか。上野に残ったものは、もともとの幕臣や新撰組のような形で集まった者、それに対して渋沢に従ったのは一橋家の家臣から幕臣になったものが中心である。これで、彰義隊の攻勢がよくわかるのではないか。
それまでも小競り合いが多くあったようであるが、能仁寺の戦いの後、成一郎と惇忠は草津、伊香保方面に潜伏した後、成一郎は江戸に向かい榎本武揚の率いる旧幕府艦隊に合流、惇忠は機会を見計らった上で郷里の下手計に戻った。一方渋沢平九郎は顔振峠の入り口に差し掛かったところで斬りあいの末に午後4時ころ自決を試み、自ら腹を裂き喉を刺して倒れた。藩兵は銃弾を乱射してその首級を持ち去り、法恩寺の門前に晒したとされている。
渋沢平九郎役の岡田健史さんは、幕府と兄たち(渋沢栄一とは養父子関係)に恥をかかせないということと、幕府の誇りを捨てないということをうまく表現して、演じていたと思う。その壮絶な死は、この会で小栗忠順、川路聖獏などのそれぞれの死とともに、かなりしっかりとした対比をもって、幕府軍側の死や、時代に残されてしまった感覚などを描いたのではないか。この青天を衝けの中では、たぶん、飯能戦争と函館戦争しか戦は書かれないのではないか(もしかしたら昭和6年まで生きた渋沢であることから日清戦争や日露戦争や関東大震災も書いている可能性もあるが)と思われるが、その中でもかなり壮絶なものであったし、このドラマの中で、渋沢栄一の心の中に「平九郎の死」として、かなり印象に残ったであろうということが見えてくるのではないか。
なかなか素晴らしいドラマであったと思う。
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