「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 いよいよ大詰めとなった麒麟がくるで描かれた「平蜘蛛」
「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 いよいよ大詰めとなった麒麟がくるで描かれた「平蜘蛛」
水曜日は大河ドラマに関して毎週書いている。まあ、いろいろあって、少々かかわりがあるので、私の関係した先が、なんとなく名前が出てきていたり、少し違う方であっても様々な形で出てきていてなんとなくうれしい。まあ、当然に私も好き嫌いがあるので、この麒麟がくるの全体の中で「この人たちはだめだな」と付き合いをやめた人々もいるが、その関係のところは、本来出てきていてもよいところで全く出てこないというような状況になっているのも、まあ、いろいろあるな、と思う。
余部や園部、小畠永明、八木城という、今までの大河ドラマでは全く名前も出なかったところが、今回大きく注目されるのは非常にスバたしいことと思う。今までのような信長・秀吉・家康という三英傑を中心にしたものではなく、明智光秀という、今までは脇役・敵役にされていた人々を主人公にして、その人間関係や心理描写をしっかりと書くことによって、新たな一面が見えてくるし、それに従って違う内容が見えてくるのはなかなか面白い。
当然に「他の目線で見る戦国時代」というのは、当然に景色が違う。富士山が下から見ると、中腹から見ると、山頂から見ると、全く違う姿でありまた景色も違い、そしてその苦労に見合った心理も異なる。まさにそのようなものではないか。現在のコロナウイルスも、首相の立場・都知事の立場・医療従事者の現場の立場、休業を余儀なくされている飲食業の立場、感染してしまった人、感染におびえる人、気にしない人、人それぞれ、感覚も感性も全く異なるということではないか。その全ての目線にこたえることはできないまでの、そのすべての目線の中で様々な内容を見てゆくことが面白いのではないか。それが歴史のだいご味であり同時に、小説の役目なのではないかと思う。
その小説をドラマにするということ、それは「作り物」出しかないが、同時にそれは「その作り物を見る人の社会を風刺しているもの」ということになる。その風刺の状況が見えてこなければ、何も見えるものではない。つまり、現代社会をどう生きているかで、同じ作品の感想が変わってくるのであろう。
「麒麟がくる」平蜘蛛めぐり緊迫の大広間心理戦!信長、秀吉、帰蝶、太夫…それぞれの思い(ネタバレ有)
俳優の長谷川博己(43)が主演を務めるNHK大河ドラマ「麒麟がくる」(日曜後8・00)は10日、第40話「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)」が放送され、俳優の吉田鋼太郎(61)が熱演してきた戦国大名・松永久秀が壮絶な死を遂げた。松永の死後、天下一の名物と謳われる茶器「平蜘蛛」をめぐり、安土城の大広間で明智光秀(長谷川)と織田信長(染谷将太)が緊迫の心理戦。染谷らが番組公式ツイッターで心境を明かした。
<※以下、ネタバレ有>
大河ドラマ59作目。第29作「太平記」(1991年)を手掛けた名手・池端俊策氏(75)のオリジナル脚本で、智将・明智光秀を大河初の主役に据え、その謎めいた半生を描く。
第40話は大坂本願寺攻めの最前線から突如、松永(吉田)が逃亡を図り、織田方に衝撃を与える。光秀(長谷川)は今、離反する理由を松永に問いただす。松永は筒井順慶(駿河太郎)に大和の守護の座を与える信長(染谷)が許し難く、自分に大和を任すという本願寺側に付くと明言し…という展開。
松永の自害後、光秀は信長から安土城に呼び出され、帰蝶(川口春奈)と久々に対面。帰蝶は信長を置いて美濃に戻ると明かし「戦が終わって穏やかな世になったら、遊びにおいでなされ」。そして、光秀は松永に託された平蜘蛛の在り処を信長に問われるが、本当のことを言わず。信長は「十兵衛が初めて、わしにウソをついたぞ」と見抜き、怒り心頭。背後には、羽柴秀吉(佐々木蔵之介)の動きがあった…。
坂本城。伊呂波太夫(尾野真千子)が預かっていた平蜘蛛を光秀に渡し「松永様は仰せられました。『これほどの名物を持つ者は、持つだけの覚悟が要る』と。いかなる折も、誇りを失わぬ者、志高き者、心美しき者。『わしは、その覚悟をどこかに置き忘れてしもうた』と。十兵衛に、それを申し伝えてくれ」――。光秀は松永の思いを受け取り、何を感じたのか。丹波攻めの後、帝(坂東玉三郎)に拝謁したいと伊呂波太夫に告げた。
平蜘蛛が最大のクライマックス「本能寺の変」へのキーアイテムとなりそうな怒涛の展開となった。
信長役の染谷将太(28)は「平蜘蛛の件では、十兵衛を試したのだと思います。でも、ウソをつかれてしまった。ほかの者なら、その場で首をはねていたかもしれない…だけど、十兵衛のことはこれからも頼りにしたいので、それはできない。信長にとって十兵衛は、そういう掛け替えのない存在なんです」と、まだ信頼感。
秀吉役の佐々木蔵之介(52)は「光秀を蹴落とすために殿に告げ口したと思われたら、それは濡れ衣です(笑)」と冗談めかしながら「秀吉は上様に命じられるまま松永を監視し、知り得た情報を正確にご報告したまで。ウソをついたのは光秀です。秀吉側に正義があるんです、一応…」と自分は悪くないと主張した。
帰蝶役の川口春奈(25)は「暴走している信長を見て、帰蝶は責任を感じているんじゃないかなと思います。これまで信長を支えたり、けしかけたり、裏でプロデュース的なことをやってきたのは自分なので。ここで離れることで、何かが変わるかもしれない。そんな思いで去ったのではないでしょうか」と自責の念も。
伊呂波太夫役の尾野真千子(39)は「平蜘蛛を明智様に渡すということより、松永様の思いをちゃんと伝えなければ…という気持ちの方が強かったです。2人の互いへの思いを知っているので、松永様の遺言のような言葉を明智様に伝える時、グッと込み上げるものがあって泣きそうになりました」と第40話のラストを振り返った。
1/10(日) スポニチアネックス
https://news.yahoo.co.jp/articles/250bcd506cff071cd23f1cadedf8ab0eca74a91f
麒麟がくるは、全44回のうちのちょうど40回目にあたる。この回はこの麒麟がくるの中で私が好きな役者が二人死んだ。一人は光秀(長谷川博己)の妻煕子(木村文乃)である。煕子の死は前回出ていたのであるが、しかし、その煕子の死の姿がもう一度出てきて、その意思をたま(芦田愛菜)が引き継ぐような感じになっている。家庭内というのは本来こういうものだという、世の男性全てが憧れる「夫婦間の信頼」があり、そして「妻が夫を支える」夫婦愛があり、そして子供が母が亡くなった後父を支えるという、素晴らしい家庭である。このような過程にいれば、男は外に出ていくらでも仕事をするのであろう。その死んだ妻の爪を小さな入れ物に入れてそれを肌身離さず持っている。なんと素晴らしい家であろうか。逆に、これで華族が引き裂かれるようなことになれば、確かに男性は主君であろうと手に掛けるのではないか。そのような気がする。その時に、たまを信長(染谷将太)が嫁に出せという。まさに、本能寺の伏線の一つであろう。幸せな家族が失われてゆく。これは「捨てるものがなくなった」という非常に大きな引き金ではないか。
もう一人が、初回からいい味を出していた松永久秀(吉田剛太郎)が壮絶な死を遂げた。松永久秀といえば、名器「平蜘蛛」とともに信貴山城で爆死したというようなことになっているが、麒麟がくるでは異なる解釈をしたものであった。あるいみで、信長の茶の湯に対するご執心というのは、このドラマではなぜそうなったのかが書かれていないが、しかし、そのご執心そのものへの暴走を帰蝶(川口春奈)が「もうついてゆけない」というようなことを言い始める。ぎゃくにいえば、ここまで何も言わなかったが、あここにももう一つ、「幸せな夫婦」があり、そして妻が叱咤激励し支えていたために天下を取り、幕府の代わりを勤めるようになった男がいる。その男が、信長であり、その支えていた妻が見えていても抑えきれないような暴走を始めたというようなことになっている。
帰蝶と、光秀は、幼馴染であり親しい間柄である。その親しい間の者二人が、信長を見捨て始めたが、その原因がほかならぬ「平蜘蛛」である。松永久秀は、そのことを知っていて、光秀に「爆弾」を仕掛けたというような感じであろうか。
上記の染谷将太さん、川口春奈さん、秀吉訳の佐々木蔵之介さん、伊呂波太夫役の尾野真千子三のそれぞれのコメントが素晴らしい。すべてしっかりと役になりきっていて、その役の意味合いを見ている人と、また制作者と共有しているということになるのではないか。
松永久秀と光秀の信頼関係、そして信長と光秀の信頼関係、この二つがうまく交錯するがしかし、このような交錯した思いというのは、現在でも多くの人が味わっている様々な内容に合致するのではないか。その思いが、複雑になると、最後には「本能寺の変」になる。その本能寺の変になるまでには、もう少し何かが必要なのではないか。その何かが最後、帝(坂東玉三郎)なのか、あるいは、将軍義昭(滝藤賢一)なのかということが、今後の注目になる。
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