「宇田川源流 日本万歳!」 レジ袋禁止という地球環境を考えた取り組みをする亀岡市の挑戦
「宇田川源流 日本万歳!」 レジ袋禁止という地球環境を考えた取り組みをする亀岡市の挑戦
月曜日は「日本万歳!」である。これは毎週、みなさんが気づいていること、気づいていないこと、当たり前と思っていることなどがニュースになっているものを探し出し、そのニュースから読み取れる日本のすばらしさを皆さんで共有しようということを考えているものである。実際に、毎週月曜日というのは、土日の連休の後で、一週間これから働かなければならないと、なんとなく心がブルーになるところであるが、日本のすばらしさを書いて、そして自分もその日本人の一人であるという誇りを持つことによって、今週一週間も爽快な気分で頑張っていただきたいと願うものである。
先週は「世界で唯一のEMPEROR」である天皇陛下による即位式典の一つである大嘗祭と大饗の儀があった。大嘗祭とは天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、新天皇が即位(現代では国事行為となる即位の礼の各儀式が終了)した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食する。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することであるとされている。
あまり天皇と庶民を一緒にしてはいけないのであるが、我々も神社の儀式、例えば、親善の結婚式など、三々九度でお神酒を飲むのであるが、まさにそれと一緒で、「神様と同じ食事をすることで、神様の心を体の中に収める」ということになっている。これが天皇になると一口酒を飲むようなものではなく、一つ一つの米や粟を口にするにも様々な儀式がありまた祝詞も存在する。そのためにかなり時間もかかるし、その儀式自体が全く異なるということになる。
ある意味で、やっと日本に「本物の天皇」といってはいけないが「完全な天皇」が落ち着かれ、そして、日本に新しい時代が到来したということになるのではないか。
天皇陛下は、古来より「暦を司る神」とされている。そのために、新たな天皇が即位し、完全に天皇として神々と食を共有するようになった、新しい時代の日本はどのような「誇らしいこと」があるのであろうか。
レジ袋禁止条例、施行先送りも 桂川・亀岡市長が再選で抱負
今月20日に投開票された京都府亀岡市長選で再選を決めた現職桂川孝裕氏が21日、市役所で記者会見し、「市民の夢や希望を形にする」と抱負を語った。全国初のプラスチック製レジ袋提供禁止条例の制定に意欲を示した上で、「懸念があるのは事実」と述べ、目標とする来年8月施行の先送りも検討する考えを明らかにした。
店舗に有償でもプラ製レジ袋の提供を禁じる条例案は市長選の争点となり、有権者の賛否は割れた。11月から地域ごとに複数回、説明会を開く考えを示し、「賛成者も多いが、反対者も排除しない。市民から『周知の徹底』という話が出れば、施行を多少遅らせても、やむを得ない」と述べた。
また、条例素案に盛り込まれた違反店舗の公表という「罰則」が、「罰金だと勘違いする人もいた。説明が足りなかった」と振り返った。その上で、「しっかり理解を求めたい」として、実効性を確保するため、罰則は撤回しない考えを明らかにした。
中学校給食の代わりに導入した「選択制デリバリー弁当」について、「子どもの格差をなくしたい」とし、小学校給食と同様、生活保護や就学援助世帯を無償化する方針を示した。早ければ来年4月から1食350円を無償で食べることができ、400人程度が対象になる。
市長選の投票率は過去2番目に低い36・12%と低迷し、自身の得票も前回選から約1700票減らした。「有権者から『もう大丈夫』と何度も声を掛けられ、投票率低下が心配だった。残念だ」と漏らし、「自分にも不足する面はあったが、相手候補とは大差を付けた。1期目の実績が認められた」と語った。
選挙中に相手候補から指摘された「トップダウン」という批判について、「トップダウンもボトムアップも両方必要。事案や施策によって的確に判断する」と述べた。
京都新聞 2019年10月22日
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/46889
さて、先週大河ドラマ関係の役者の話であまり良くない話が一つあったが、そのことは無視して、大河ドラマのアドバイザーとしてお世話になっている京都府亀岡市は、今様々なことに挑戦をしている。もちろん大河ドラマもかなり大きな取り組みであるし、もう一つJリーグの京都パープルサンガのフランチャイズグランドも亀岡にできる。そのように多くの観光客が訪れる中で「プラスチック製レジ袋の禁止条例」を行い地球環境を考えるというのである。
さて、我々現代人というのは「便利さ」を追求することによって様々なものを「犠牲」にしてしまっている。しかし、その「様々なものの犠牲」が、徐々に「犠牲になってくれていることが当たり前」というようなことになってしまい、そのうえで、「犠牲になってくれないことが不満」となってしまう。便利ではなかったが快適で自然にも優しい時代の経験があるにもかかわらず、なぜかそのまま便利であり続けようとするものではないか。
レジ袋という存在が出てきたのがいつの頃であったか。少なくとも、私が小学校低学年の頃は、スーパーマーケットでも紙袋(持ち手なんかはなかった)で入れてもらっていたし、また肉や魚は、竹皮や新聞紙で包んでくれていたはずだ。それどころか、最近は見かけないが、泥鰌を生きたまま桶や盥の中で売っていた。我々も心得たもので、豆腐やおでんを買いに行くときはお鍋を持って行っいていれてもらってきたし、また、泥鰌を買うときは金魚すくいの時のようなビニール袋に入れてもらっていた。
それでよかったのではないか。
「MOTTAINAI」という言葉が世界の共通語になりつつあった時代が数年前にあった。まさに、入れ物、包装紙などにおいてそのような言葉がある。これはある意味でもったいないとか環境を考えるということがあるが、もう一つの意味で「見た目で左右されるのではなく、中身や本物の性質を見て判断する」ということになるのではないだろうか。実際に政治でも、買い物でも、商品でも、「見た目」で判断するばかりで「中身」で判断できなくなってきているような気がする。おしゃれという「外見を追求する」ということは当然に良いのであるが、一方で、自宅で食べてしまうものや、これから加工して形が変わってしまうものなどは、「実質」「中身」を重視し、外見は二の次でよいのではないか。そのような内面の美しさを求める目を養うということが本当に大事な時代になってきたのではないかという気がする。
亀岡市の取り組みは、一つにはブームで終わってしまう可能性があるが、しかし、本来は、このようなレジ袋ゼロを目指すということは、ある意味で本質を求め、中身の美しさを追求するということにつながる。その精神を「子供のころからの教育」から行い、なおかつ、市全体でそのような周知を行うことはかなり重要ななのではないか。本来は「日本全体で取り組むべきことを、亀岡市が先駆けて行っている」ということではないかという気がする。
外身ではなく中身、本質を見る。ここまで周知できれば、素晴らしいことであるし、それを目指す「市」そして「市長」がいるということは、かなり素晴らしい。そのような市があることを日本人として誇りに思う。
日本に生まれて本当に良かった。
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