「日曜小説」 マンホールの中で 第四章 4
「日曜小説」 マンホールの中で
第四章 4
マンホールの奥、先ほど人が入ってきた方とは反対側の方から、懐中電灯の明かりと思われるものが揺れていた。
善之助は目が見えない。しかし、失明といっても完全に五目をつぶったように黒く何も見えないわけではない。失明という状態であっても、目の前にある灯りや陰影などはわかる場合がある。もちろんその陰影だけでそれが何かを認識することはできないのであるが、それでも健常者が目をつぶったようにただ真っ暗な状態とは全く異なる。特に、マンホールの真っ暗な中に長い間いて、その時に、か細く頼りない、それでいながら着実に近づいてくる救助隊の明かりの揺れは、善之助でも認識できた。
善之助には、ちょうど長いトンネルの出口が、向こうから迫ってきているように見えていた。暗い中に、明るい点が一つ見え、それが徐々に近づいてくる感じである。その灯りが手に届くときになれば、このマンホールの中、鼠の国の滞在時間が終わってしまう時なのである。
「大丈夫ですか」
そんなに大きな声を出さなくても、マンホールの中ならば、すべてが反響して聞こえてくる。それなのになぜか大きな声を出してしまうのは、人間としての習性なのかもしれない。
「おーい」
いまだに、この楽しい時間が失われてしまうのではないかという不安に駆られて、助けを呼ぶことのできない善之助に代わり、次郎吉は声を出した。
「今度は救助が来そうだね。爺さん」
「ああ。ところでさっきはなぜ来なかったんだ」
「そうか、爺さんは見えないんだよな」
次郎吉はそういうと、声を小さくして話をした。
「俺みたいに、ここに住んでいる人間にしてみれば、当たり前の話なんだが。ここは、上水道じゃなく下水道。だから、ここにいるのは土管なんだ。土管というのは、爺さんも知っていると思うけど、塩化ビニールとかでできているわけではなくて、コンクリートの筒なんだよ。そのコンクリートの上が火災で、かなり熱い熱がかかり、その上に、大量の水を流し込んだらどうなるか」
「大量の水って言っても、こっちには流れてこなかったじゃないか」
そうだ。水が流れてきたのであれば、当然に、善之助たちがいるところにも大量の水が流れ込んできていて、もっと濡れているはずだし、場合によってはこの地下の中でおぼれて死んでいたかもしれないのだ。しかし、そうはないっていない。
「爺さん、さすがだね。実は、ここ、ちょうど俺たちのいるところは少し高台になっているんだ。そして向こう側の方に大きく折れ曲がって水が流れる仕組みだ。だからここには水が来ない。ここに来た水は流れていくことになっているんだ。マンホールの中は、必ずこのように少し高台になっているところがあって、その高台になっているところの上に出入り口、つまり、マンホールの蓋があるんだよ。」
「なるほど、そんな構造になっているのか」
「だから、大概の場合、マンホールから落ちても穴の底で溺れてしまうことはない。ただ、今回のような場合、うえで熱がかかり、コンクリートがかなり圧力がかかっている上に、水がかかってコンクリートがもろくなっているから、土管が崩れてしまうんだ。」
「土管は崩れるのか」
「爺さんはこの中をくまなく歩くことはないから知らないと思うが、実際結構崩れているところは少なくないんだよ。都会ではそんなことはないが、田舎町ではたまにあるんだよね。また崩れていてもあまり大きな問題はない。下水だから水が流れれば大丈夫だし、水があふれたときには、その水で崩れたことになってしまうから普段の問題にはならないんだ」
「なるほど。」
「行政ってのは、見えることはしっかりするが、見えないところでは手を抜く傾向がある。まあ、マンホールなんて言うのはその典型なんだ」
次郎吉は、何でも知っている人のように、詳しく説明する。そうしている間に、救助隊の足音も聞こえるほど、近くなってきている。
「ところで、もう会えないのかな」
善之助は、なんとなく悲しい口調で言った。実際に、本当に短い、数時間のことであったが、しかし、今まで旧知の中であるかのように一緒にいて、そして今まで気づかなかったことをこれだけ気付かせてくれた人は少ない。本当はもっと話をしていたいが、しかし、マンホールから落ちて怪我をしたところも、そろそろうずきだしている。
「まあ、また会えるよ。爺さん」
なんだか、年齢の上下と立場は変わってきているような感じだ。年下と思える次郎吉の方が、はるかに大人びて見える。
「どうやって」
「まあ、たまには爺さんのところに訪ねていけばいいかな」
「来てくれるのか」
「ああ、ちゃんと探して行くよ。鼠の国の泥棒に取っては、人間の国の中の人を探すことなんかはそんなに難しいことではないからな」
その時に、やっと救助隊が来た。
「大丈夫ですか」
「ああ」
「先ほど声がしたのは二人と聞いていましたので」
まだ若い声の救助隊のお兄さんは、明かりを二人に当てると、後ろからついてきた救命士に場所を譲った。
「それでは少し診させてもらいます」
救命士は、次郎吉と善之助のところに近づいた。懐中電灯で無遠慮に顔を照らす救助隊の人に不満そうな顔をし、その灯りを遮るようにしながら善之助は言った。
「私は目が見えないんだ。」
「それは、火事の被害でですか」
「いや、元からだよ」
善之助は、不機嫌そうに言った。
「お名前を言えますか」
「杉崎善之助だ。」
なんだ、いったい何なのだ。楽しい時間を打ち破った上に、まぶしい光で顔を照らし、取りかっ込まれる。善之助にとっては助けられていることはわかるが、しかし無遠慮にもほどがある。
「痛い。強く触るな」
「痛いですか。折れているのでは」
「ああ」
「よくこんなに何時間も痛みを感じませんでしたね」
「そちらの次郎吉さんと話をしていたら時間など忘れていたよ」
次郎吉はどうなったのか。目ではあまり見えない善之助は、耳を澄ますしかなかった。向こうでも名前を聞いているようであるが、次郎吉の名前を聞くことはできなかった。もっとも聞きたいところを、無粋で無遠慮な会話で消されてしまったのはあまりにも面白くない。そのうえ、折れている足や手を触られ、あまりうれしい状態ではないのである。
「かなり腫れていますよ」
「そんなこと言われても仕方があるまい。ここで、何も持っていない二人でどうしたらよかったというのだ」
「それはそうですね」
「それよりもステッキは」
目が見えない人にとって白ステッキは自分の目と同じだ。ないと落ち着かない。そういえばさっきこいつらが来た時に次郎吉が叩いていたのではなかったか。
「はい、それは新しいものをこちらで用意します」
その時向こう側の声が聞こえた。
「あなた足に刺さっているではないですか」
「ステッキか。まあ、上から人間と一緒に降ってきたんだから、刺さってても仕方がないよな」
「しかし、この出血と化膿具合ではかなり」
「大丈夫だ」
やはり次郎吉も不満そうだ。
「次郎吉さん。何か刺さっていたのか」
「爺さん。あんたの白いお道具が、太腿に刺さってたんだよ。だから、爺さんを地上に連れていけなかったんだ」
今更ながら、善之助は、次郎吉に何と酷いことをしていたのかと後悔した。何しろ数時間、ずっと刺さったままになっていたのだ。それを抜くこともせず、また助けを求めることもせず、ずっと会話に付き合ってくれていた。この救急隊が来る頃が限界であったのか。心なしか次郎吉の声が力なく聞こえる。
「搬送します」
究明隊のリーダーらしき人が声をかけた。
「二名収容。一名右足骨折、右肩脱臼、右腕骨折の疑い。一名左足裂傷。出血多。左腕骨折。搬送準備と輸血の準備お願いします」
「タンカで挙げられますか」
「いえ、背負って上がります。上から援助お願いします」
救急隊は、このような事態になれているのであろうか。善之助と次郎吉を簡単に背負うと、そのまま開いているマンホールの下までいってそのまま上がりだした。
0コメント