「宇田川源流」 究極の選択をしなければならない場合の心構えを普段から行っているイギリスと保護者に謝罪してしまう日本の根本的な「教育」への考え方の違い
「宇田川源流」 究極の選択をしなければならない場合の心構えを普段から行っているイギリスと保護者に謝罪してしまう日本の根本的な「教育」への考え方の違い
人生において、一度や二度、必ず「究極の選択」というのはある。究極の選択ということは、間違いなく片方が被害が大きい、またはかけがえのないものを失うというような大事な内容になる。そのように大事なものを失ったりあるいはかけがえのないものを失うような「重要な決断」でなければ、「究極」とはならないのである。
イギリスでは、これを普段から訓練している。イギリスの北部スコットランドでは小学校の高学年に当たる年齢になると、必ずこのような設問がある。
「スコットランドが独立戦争を行っていた。その時に、あなたは家に隠れていました。その時外で戦闘が起こったような音がして、傷を負った瀕死のイングランド兵(敵兵)が助けを求めて入ってきました。かわいそうに思ったあなたは、そのイングランド兵の手当てをしました。しかし、その後スコットランド兵が来て『逃げたイングランド兵がいれば差し出すように。もし差し出さずにそのままイングランド兵をかくまっていたら、家族を皆殺す』というのです。手当をしてまだ瀕死のイングランド兵は、何とか助けてほしいと哀願します。さて、あなたはイングランド兵を助けて、家族を危険にさらしますか、それともイングランド兵を差し出してイングランド兵を殺し、家族を守りますか?」
もう一度言う。これが、スコットランドの小学生の問題である。明らかな敵兵とか、他の国の兵隊というのではない。今「イギリス」として同じ国にいるイングランド人を殺して、スコットランドの独立を守るのか、あるいは、同じイギリス人であるとしてイングランド兵を助けるのか。
「スコットランド民族」「家族の命」「軍隊の圧力」「現在のイギリスという国家」「独立戦争」様々なことがこの問題の中に入っている。そしてこの問題を何週間も小学校の中で議論をするというのである。
スコットランドの独立運動と簡単に日本ではニュースが流れているが、今、このような選択肢を子供に行わせている。実はイスラムの国でも中南米でも同じようなことが行われている。
それに比べて日本はどうであろうか。
死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪
山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
市教委青少年課によると、授業は5月に東中の2、3年生徒、東小5、6年児童の計331人を対象に「学級活動」の時間(小学校45分、中学校50分)であった。同じスクールカウンセラーが担当し、トロッコ問題が記されたプリントを配布して授業した。
プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。
授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。
市教委によると、授業は、県が今年度始めた心理教育プログラムの一環。スクールカウンセラーによる授業については資料や内容を学校側と協議して、学校側も確認してから授業するとされていたが協議、確認していなかった。
東小の折出美保子校長は「心の専門家による授業なので任せて、確認を怠った」と確認不足を認めた。【古賀亮至】
2019年09月29日 11時51分 毎日新聞
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12159-0929m040044/
「教育」とは、将来、何かが起きたときにその「何か」という事件や事故に対処できるように、若いうち、子供のころから様々な対処を行えるような精神を鍛え、なおかつ、そのような時の選択肢をいつも頭の中に入れておき、そして何度も自分の頭の中で「究極の価値観」をつくって、シミュレートすること、何度も考えて悩み、そして事故を作ることが本来の教育である。もちろん、知識をつけたり問題の解法を学ぶということも重要ではあると思う。しかし、それは、そのようなことは「究極の選択に備える」そして「究極の場面になった時に、迷いを少しでも少なくし、後悔を少なくする人格をそなわせる」ということを行わなければならないはずであり、歴史の知識や数学の解放、科学の法則などは、すべてそのための道具である。
もちろん、一生の間でそのような究極の選択をしなくてよい人も少なくないし、また、そのような究極の選択をしないまま一生を過ごせればなんと楽なことであろうか。しかし、人間は生きているうちに、いつそのような選択があるのかわからないし、またその時に「最善」また「次善」の策を取らなければならないことが少なくない。
さて、たぶん上記の記事にある山口県の学校は、「本来の教育」の意味で行っていたのに違いない。しかし、単に大学受験のための知識や問題を解くための道具としか考えていない「保護者」という人々にとっては、このような「覚悟」または「人格形成」は全く必要のないものであり、なおかつ、「究極の選択を迫られるということを前提とした教育自体」がうようなものであろう。まあ、その保護者といわれる人々にとっては、そのような究極の選択をしなかったか、または、究極の選択の場面も、誰かに責任転嫁し、自分では全く何もしないでただ評論家張りの無責任な言動を言って逃れてきたのであろう。
しかし、よく考えてもらいたい。
このような「究極の選択を想定しない教育しかしていない子供が、将来究極の選択を迫られる場面に遭遇したらどのようになるのか」ということになる。普段からそのようなことを全く考えていない保護者のもとに育てば、大事な問題が生じたときには、その問題から逃げてしまい、結局社会の役に立たない人間になってしまうし、また、そのような役に立たない人間であれば、当然に責任のある立場に会社や集団の中に社会に出てから使えないのであるから、当然に、将来の出世などもすべてなくなってしまうということになる。つまり、このような究極の選択を全く教えない保護者に育てられた子供たちは、その子供たち自信が「全く将来役に立たないという前提で教育を受けている、過保護で社会で役に立たない人物として育てられている」ということである。つまり、この時点で将来の有望株の芽を摘んでしまっているのである。
「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。<上記より抜粋>
まさに「命」「責任」ということである。無責任に5人殺すのか、あるいは自分で1人を犠牲にするも、5人を助けるのか。本来は、この1人が重要な人物であった場合、5人の中に国家の要人がいて、1人が自分の親であった場合など、様々な条件が付くようなこともある。もちろんそのようなことは「映画の世界」でしかないかもしれない。しかし、社会に出れば、そのような価値観と自分の責任を持った行動が期待される場面は少なくない。そのような場面を想定した質問に答えられない子供ばかりになってしまう。
日本の子供たちが、世界で通用しない。国際人にはならないというのは、何も言語の話ばかりではなく、このような「覚悟」「人格」「責任」のことを学んでいないということが大きな問題なのである。
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