「日曜小説」 マンホールの中で 第一章 5
「日曜小説」 マンホールの中で
第一章 5
泥棒のことを知りたい。
なんと不思議な感覚であろうか。そういえば、まじめに生きてきて、まじめな社会人生活を送り、そのうえ途中で事故で失明してしまって社会から追い出されてしまった善之助にとって、泥棒などというのはもうこれで一生知ることのできない世界ではないか。実際に、今までの人生で会社の備品のボールペンをそのまま持って帰ってしまったというような、誰からもとがめられることの無いような「窃盗」はないことはない。しかし、そのような半分過失と思えるような「小さな悪事」くらいしか思いつかない。当然に「過ち」でしかなく「芸術」などという次郎吉の主張からは程遠いものでしかないのである。
「泥棒の話といわれても」
次郎吉は照れているようだ。
「頼むよ。芸術の域に入った話というのは、是非聞いてみたい。」
実際に、次に会うときは自分の家に次郎吉が入ってくる時か、あるいは、ニュースで次郎吉が捕まったことを知って、裁判に傍聴に行くときくらいしかないであろう。まあ、善之助の家には、次郎吉が狙うようなものはないのかもしれない。そうなれば、今のこの機会しか次郎吉の話を平和的に聞く機会などはないのである。
「まあ、いいか。少し話そうか。」
次郎吉は、そういうと、体制を変えたのか、布がこすれる音がした。
「爺さん、お茶だってさ、普通に飲むのは誰でもできるだろ。まあ、じいさんの場合は、目が見えない分少し大変かもしれないがね。」
「ああ、だがもう慣れたよ」
「そういうもんかな。俺には目が見えないのに熱いお湯を使うなんて想像もつかないけどな。まあいいや。そうではなく、お茶も一般でやることもできる。しかし、茶道とか裏千家とかなれば、それは芸術の域になる。そういうもんだろう」
確かにそうだ。一般でできること、素人でできることはたくさんある。一般でも体験できるような教室も少なくないし、また、AIの時代にロボットなどが性能がよくなれば、誰でもがある程度のことができるような形になる。しかし、やはり「プロ」は違う。素人は、そのようなテンプレートの上で、誰かがセットしたものの上で「できたつもり」になって踊らされているだけのことでしかない。それに比べてプロというのは、自分で切り開くこともできるし、また、基礎から応用まですべて自分の判断で行うことができる。
次郎吉の言った「お茶」の例は、まさにそのもので、お茶を飲むだけならば、素人でもなんでもできるのであるが、「喉の渇きを潤す」という動物的な欲求を満たすことでしかなく、詫びやさびを感じるとか、心を落ち着けるとか、茶碗を楽しむとか、風流を感じるなど、お茶をめぐる「喉の渇きを潤すということだけではない、人間のさまざまな心の動き」までを極めるには、素人ではとてもできないのである。
「お茶の話、よくわかるなア」
「まあ、泥棒も一緒。まあ、泥棒は普段、誰もがお茶を飲むような感じでやるもんじゃないし、日常に泥棒や万引きがあふれてしまっても問題だろう。でも、素人が万引きを何回かやった程度で、偉そうに一人前の泥棒面されるのは、本物のプロにとっては迷惑なんだよ。」
「にわかプロ、プロのつもり、素人に毛が生えた程度と、本物の違いというのはそういうものかもしれないな」
「ああ、そうなんだ。そしてそのプロの泥棒のつもりで、万引きしかしたことないような奴が、泥棒の代表みたいに泥棒のイメージを作ってしまうと、変なイメージがついて困るんだよ」
「さっきの私のことか」
善之助は、泥棒に芸術を感じない単なる犯罪者としか思えなかった自分のことを言っているのかとおもった。
「いや、違うよ。変な奴が泥棒のイメージを作ってしまうから、爺さんのような泥棒に芸術を感じない一般人が出てきてしまう。まあ、もっとも我らは大手を振ってお天道様の下に出られるようなことはないし、自分が芸術だといいながら法律違反をしていることも知っている。それだけに、なるべく他人に迷惑をかけず、なるべく社会の役に立つように、盗む者のことを考えて、そしてそれを開放することによって多くの人が得するかを考えて泥棒するんだ。」
「義賊だね」
「いや、そんなに褒められたもんじゃねえよ。そりゃ俺だって金のためにやることもある。俺も、恩恵を受けるべき社会の中の一人だからね。でも万引き犯のように、警備が甘いからといって、あまりもうかっていない店から、少しの金を払えば買えるようなものを盗んだりはしないし、金だけのために、盗むってこともしない。昔は金に困って盗みも働いたが、本来の泥棒ってのはそういうもんじゃないんじゃないかと思うんだよ」
善之助にとって、彼が次郎吉と名乗っているのは、江戸時代の泥棒義賊鼠小僧次郎吉にあやかっているのであろう。鼠小僧次郎吉は、悪どくして儲けた大店の蔵に入り、金を盗み、そして貧乏長屋などで頑張っている家々にその金を配っていったという。当時の江戸庶民は、泥棒でありながら鼠小僧次郎吉のことを、社会を助ける人と、神のように崇め奉ったという。
目の前にいる次郎吉は、その言葉をすべて信じるならば鼠小僧次郎吉の再来である。しかし、善之助の知る限り、そのような噂はない。しかし、実行していないまでも、それを目指していることは確かなのではないか。
「いや、すごい話だね。しかし、今までそのような義賊が私の家の近くに出たというような話は、ついぞ聞いたことがない」
「そうか。やはり次郎吉のように貧乏人に金を配らないとダメかな」
次郎吉は、少し寂しそうに笑った。
「だいたい、今の社会ってもんは、宝物を一般の人がいることができるようにしたというような社会貢献を、あまりありがたがらない。テレビとか、そういうものがだいたいなんでも映してしまうから、本当に貴重なもんがなんだか分からなくなってきているんだ。結局、ありがたい話となれば、宝くじが当たるかのような、あぶく銭を手にした時だけになってしまう」
「ああ、そうだな、寂しい世の中になった」
「俺は次郎吉を名乗っているが、本物の鼠小僧次郎吉のように、努力をしていない人に金を配ろうとは思ってないんだ」
次郎吉はそのように言った。
「社会のためになるのが、次郎吉さんの役目ということならば、そうだろうね」
「わかるか、爺さん」
泥棒をしながら社会のためになるというのは、ある意味でおかしいのかもしれない。犯罪で社会をよくするというのは、本当ならば間違ったことなのかもしれない。しかし、自分にとってもっとも得意なことで社会に貢献するということは、ある意味で非常に重要なことなのかもしれない。そしてその自分にできる得意なことが、たまたま泥棒であった場合、どうすればよいのであろうか。
次郎吉は、そのことを社会のためのものを盗むというように言っていたのだ。そして、その次郎吉の判断では、「努力もしない、社会で生きるためにもがき苦しんでいるわけでもない、誰かに守られているような人々に、あぶく銭を配る」ということは「社会のためにならない」ということなのではないか。
「次郎吉さん。、待ちぼうけという歌があったけど、そんなもんではないか」
「どんな歌だっけ、爺さん」
「野良稼ぎをしてるところに、ウサギが来ていい請けになった。男は野良稼ぎをやめて、ウサギが来るのを待つようになったしまった。そうしたら畑がダメになってしまったといいような歌だよ」
善之助は歌うのではなく、その内容の話をした。
「あれだろ。『まちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ』という歌だろ」
「ああ。知ってんじゃないか」
「まあな。俺たち泥棒には、待ちぼうけは悪いことじゃねえから。そんな時にすこし鼻歌で気を紛らわすからな」
次郎吉は、歌まで歌ったことで少し恥ずかしそうだ。
「それで、その歌みたいに、金を配ってしまったら、社会の多くの人が『待ちぼうけ』になってしまって、結局社会で『野良稼ぎ』をする人がいなくなってしまうということか」
「ああ、そうだ。」
「ということは、江戸時代の庶民と、今の庶民では、今の方が怠け者ということか」
善之助はそのように考えた。江戸時代は、鼠小僧次郎吉が金を配っても、働くことはやめなかったし、また、次にその金が来ることをあてにしなかった。鼠小僧次郎吉の入れてくれた金は、病気の時の高価な薬代など、緊急の出費への備えのようにしていた。
しかし、現在の人は、今の次郎吉が置いてくれた金を、次もまた来るというような根拠のない確信をもって、自分で努力をすることもなく、あぶく銭を待っているというような状況なのだ。
善之助には、何の犯罪を起こしているわけではないが、目の前にいる泥棒の次郎吉よりも優れているとも社会に貢献しているとも思えない。同時に、そのあぶく銭が来ても、毎日の仕事や努力をやめない江戸時代の庶民よりも、いまの人々がダメな人に見えてきた。
そして何よりも、善之助は目の前にいる姿の見えない次郎吉という泥棒に引き込まれていく自分自身を感じていたのである。
「そうだな。泥棒という社会の中に入ることのできない人間にしてみれば、今と昔では今の人間は軟弱でダメだよね。まあ、他人様のことを語れるほどの話ではないがね」
「その辺の今の人をどう見ているか。聞かせてくれるか」
助けは、まだまだ来そうにない。マンホールの上では、何かわからないが大きな爆発音が聞こえた。
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