政治や経済とは関係がありませんが大河ドラマ韋駄天についてのクドカンの「恨み節」について一言
政治や経済とは関係がありませんが大河ドラマ韋駄天についてのクドカンの「恨み節」について一言
NHK大河ドラマ「いだてん」が絶不調である。まあ、番組内から逮捕者が出てくるし、また、ストーリーの面白みがない、ドタバタ喜劇の連続で、朝ドラのようだなどの様々な声が聞こえるところ、まあ、史上最速で視聴率が一けたになるという、大河ドラマ始まって以来の危機的状態である。 実際に「いだてん」は、2020の東京オリンピックが行われることから、国内にオリンピック機運を高めるということから、ある意味で政策的な配慮も、また政治的な目的もあって作られた大河ドラマである。そのために、大河ドラマにおいて初といっていいほど、戦はないし、人の生死もあまり関係がない状態になっている。そのうえで、オリンピックの日本でのことを出して、その歴史やオリンピックに国運をかけて参加した人々を描くはずであったと聞いているのである。 しかし、やはり大河ドラマといえば、そのようなものではないという概念が強い。これは、一つには大河ドラマに関しては放送時間が日曜日の夜、再放送が土曜日の昼ということで、実際に男性の歴史ファンが多く見ることが少なくないのである。男性の歴史ファンが多いということは、かなり調べたり、あるいは、男性的な目線での歴史解釈というのが必要であり、テレビ画面の中だけのドラマ性を求めるばかりでは人気になれないのである。なんというか、ストーリーの奥の深さや歴史の奥の深さを優先し、ドラマとしてのテンポや、切り回しを優先するのではないというところではなかろうか。その部分が大河ドラマ「いだてん」では足りないのではないか。 一方で宮藤官九郎氏に対する問題が集中している。クドカンに関して言えば、朝の連続テレビドラマ小説「あまちゃん」によって非常に好評を得た。これをもとに、大河ドラマの新たな試み、つまり「戦のない大河ドラマ」を託した形になったのではなかろうか。 ラジオで激白 NHK大河「いだてん」に5年を捧げたクドカンの恨み節 視聴率の低迷が続くNHK大河ドラマ「いだてん?東京オリムピック噺?」は、3月31日放送分で“ストックホルム編”が終了し一区切りついた。 そんな中、8日オンエアのTBSラジオ「ACTION」に「いだてん」の脚本家・クドカンこと宮藤官九郎がパーソナリティーとして出演。ドラマの舞台裏について初めて口を開いた。リスナーによってはNHKに対する“恨み節”にも聞こえたのではないか。 16時に始まったコーナーでクドカンは〈愚痴のコーナーです!〉と前置きすると、〈このドラマは2014年の暮れにNHKから三島弥彦と天狗倶楽部の資料が大量に送られてきたことが始まりでした〉と告白。その後、「シナリオハンティング」と称してストックホルム、ベルリン、さらには開催中のリオ五輪にも連れて行かれたそうだ。そのために長女の学芸会や運動会に行けず、家族旅行も潰れたという。ちなみに、クドカンはスポーツに興味がないという。それなのに、このドラマの構想に5年の歳月を費やし、そのためにさまざまなことが犠牲になったことをほのめかした。 脚本を書き始めてからはさらに過酷な日々だったようだ。クドカンはこう証言した。 〈脚本ができるまでには5段階のプロセスがあるんです。白本→青本→準備稿→内容決定稿→決定稿。こうして脚本は完成するわけです。その間、何度となく時代考証などが行われるのです。“あの時代にこういう言葉はありませんでした”とか、“こういう文化はありませんでした”とか。明治時代の時代考証、スポーツ考証、熊本弁、浜松弁の考証とか、さまざまな考証が入ってくるのです〉 芸能ジャーナリストの芋澤貞雄氏が言う。 「もちろんドラマ制作において時代考証などは大切ですが、クドカンのような一流脚本家にとって、自分の作品に次々と手を入れられることは面白くなかったと思います。彼はラジオの中でドラマ1話当たり4日から1週間を要したと証言していました。それが白本が決定稿になり、脚本が表紙付きの台本となった時にはほぼ原形をとどめない“別の作品”になってしまったと彼は言いたかったのかもしれません。必然的に“クドカンテイスト”も薄まってしまったはずです」 クドカンは〈(NHKには)優秀なスタッフが何人もいて、収拾のつかなくなった私の脚本の情報整理を見事なくらい手際良くやってくれるのです〉と語っていたが、これを文言通りに受け取るのは難しい。自分の作品を“殺した”NHKに対する皮肉ではないか。 クドカンは言わずと知れた一流脚本家である。この5年の間に自分がやりたい舞台や作りたい音楽があっただろう。リスナーには、“失われた5年間を返して欲しい”とNHKに訴えかけるようなクドカンの悲痛な叫びに聞こえたのではないか。 日刊ゲンダイDIGITAL2019年04月13日09時26分 http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/nikkangendai/entertainment/nikkangendai-535410?utm_source=dmg&utm_medium=1 さて、脚本家にはかなりの苦労がある。物語を書くのも同じで、小説を書くときも、時には半分以上書きあがっている内容をすべて消してしまう場合も少なくない。私もそのような経験は少なくなく、何回も書き直しをして本が一冊出来上がる。それだけに「白本→青本→準備稿→内容決定稿→決定稿。こうして脚本は完成するわけです。その間、何度となく時代考証などが行われるのです。」<上記より抜粋>という内容はよくわかるのである。まあ、その間に本当に多くの人の手が入り、そして、その多くの人の手によって、自分の文章が形がなくなってしまう場合が少なくない。あとの似合って読者に「なぜあのような表現にしたのですか」などと聞かれた時に、編集の方で直してしまった内容などでは非常に悲しい気分になる。やはり私の表現の方が正しかったという気分になるのだ。 まあ、ある意味で「自分の傑作を汚された気分」という感じであろうか。クドカンもそのようなところを味わっていると思う。 一方で、「そのために長女の学芸会や運動会に行けず、家族旅行も潰れたという。ちなみに、クドカンはスポーツに興味がないという。それなのに、このドラマの構想に5年の歳月を費やし、そのためにさまざまなことが犠牲になったことをほのめかした。」<上記より抜粋>などというのは、甘え以外の何物でもない。はっきり言ってしまえば、このような仕事をしている人にとっては当然のことで、いやならばやめればよい。 私などは「いやになったら」「自信のある仕事ができなくなったら」、その仕事から手を引くというのは当然のことであり、いやいや仕事をやれば当然いそのような仕事は、多くの人に受け入れられるはずがないのである。つまり「このようなことが犠牲になった」などという恨み節が出るのは、当然に「驕り」以外の何物でもなく、あまり良いものではないという感じがするのである。 まあ、今回の内容はクドカンという「自分の個性に合わせた内容を書く脚本家」と「既成の大河ドラマの観点でしか物事を言えないNHKスタッフ」の二つの内容があり、うまくゆかないような状況になっており、その内容で面白くないといったところで、逮捕者が出るなど、マイナスのイメージになった。心血を注いだクドカンにとってはかわいそうではあるが、しかし、そのようなことは当然にあることであり、またその中で、自分の個性を押し出すことが出来なかったことが大きな問題ではないのだろうか。 来年の「麒麟がくる」では、そのようなことの無いように期待したい。
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