「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性交を教えなに日本の性教育で何が学べるのか?
「宇田川源流」【土曜日のエロ】 性交を教えなに日本の性教育で何が学べるのか?
今週も土曜日のエロの日が来た。ちなみに今週はなんとなく忙しくあまり時間がない中でこの話を書いているのであるが、その中でも、やはりこの文章を書くということになると、なんとなく元気になってくる。。もちろん私自身がエロの話を好き名のもあるが、過去に何dも書いているように、実際にエロ、つまり本能に根差した部分はどうしても人間が必要なことでありまた欲望が出てしまうことなのである。ある意味で、食欲や睡眠などと同じように欲望のママに出てくることになり、そこは本性が出てしまう。また、その得論移管することだけではなく、そこにまつわる嫉妬などの感情も非常に興味深い。あるいみで人間の本性の見本市のようなところであり、その部分が非常に面白いのである。
さて、そのようなことばかり言っていないでまずは今週あった話を見てみよう。
今週のニュースの中で注目されるのは、やはり巨人の阿部前監督の逮捕の話であろうか。ある意味で、児童相談所は「マニュアル通り」にやったのであろうし、また警察も「マニュアル通り」にやったのであろう。しかし、国民の目はどうであろうか。
今回の件で、「児童相談所に連絡してしまうと、本人の確認も取らずに、警察沙汰になってしまう」ということを深く信用づけてしまったのではないか。また、警察もあくまでも現行犯逮捕という事であったが、しかし、その時に事情は聞いたのか。そのようなことが重要なのではないか。そもそも、このような児童相談所や警察の対応や、またはマスコミの対応で、家庭が崩壊してしまうのではないかということが心配なのである。
本来課程の事なのであるから、家庭裁判所のように、通常はマスメディアには非公開にすべきであるしまた、興味本位の話は控えるべきではなかったか。もちろん、世の中には家庭が崩壊している例は少なくないのであるが、一方で、普通の家庭に対して、「崩壊した家庭を前提にしたマニュアルを突きつけてよいのか」ということも大きな門だで派内かというような気がする。何か別な対応の方法があったのではないか。そんな気がしてならない。
さて、今日のエロの話も、「普通の家庭」を前提にしたものであることは言うまでもない。もちろん「普通の」というのは何を指して「普通」なのかは様々な定義があるのかもしれないが、しかし、ある意味で、「いきなり警察を呼ばれても不思議のない家庭」ではないことは間違いがないのではないか。
<参考記事>
「子供たちに必要な性の学びが制限されている」”性交”教えない日本の性教育 世界と何が違うのか 変化を求める大人たちの声を聞く
5/15(金) 20:00配信RKB毎日放送
https://news.yahoo.co.jp/articles/c9e5ac8cdc40718694bfd2ea7f92a1f6b04d27be
<以上参考記事>
普通の家庭であれば、性教育などはしっかりと行わなければならないのですが、一方で性教育が非常に難しいということもあります。
この記事が扱っている問題の背景には、日本の性教育が長年「生殖の説明」と「性行動の抑制」の間で揺れ続けてきた歴史があります。特に日本では、「性教育をすると子どもが性的に早熟になるのではないか」という不安が根強く、教育現場が非常に慎重になってきました。そのため、海外では一般的に教えられている性交、避妊、同意、性的多様性、人間関係といった内容が、日本では十分に扱われないことが多いのです。
戦後の日本では、かつては性教育そのものが比較的進歩的に行われていた時期もありました。高度経済成長期には人口問題や母体保護の観点から、避妊教育もある程度行われていました。しかし1990年代後半から2000年代にかけて、「過激な性教育批判」が政治問題化します。特に東京都の七生養護学校事件は象徴的でした。教材や授業内容が「行き過ぎ」と批判され、行政介入や教員処分にまで発展したことで、全国の教育現場に強い萎縮効果を与えました。ここから日本の学校現場では、「問題にならない範囲だけ教える」という空気が強くなっていきます。
さらに日本の学習指導要領には、いわゆる「はどめ規定」が存在します。中学校では妊娠の経過は教えるが「受精に至る過程」は扱わないという考え方です。つまり性交そのものを直接説明しない傾向が制度として残っているのです。これは海外から見るとかなり特殊です。
一方、欧州、とくに北欧諸国やオランダなどでは、性教育は単なる「性行為の知識」ではなく、「人間関係教育」「自己決定教育」「尊厳教育」として位置づけられています。たとえばオランダでは幼少期から、「嫌なことは嫌と言ってよい」「他人の身体には勝手に触れない」「自分の感情を言葉にする」といった教育が始まります。思春期になると避妊、性感染症、同意、恋愛関係、性的暴力の回避などを現実的に教えます。その結果、若年妊娠率や人工妊娠中絶率が低いことで知られています。
つまり海外では、「知らないほうが危険」という発想が強いのです。対して日本は長く、「教えないほうが慎重」という発想が優勢でした。
また日本社会には、性を「公に語りにくいもの」とする文化的背景もあります。日本は表面的には性表現が多い社会ですが、それと教育としての性の議論は別問題です。娯楽や消費の中では性が氾濫していても、家庭や学校で真面目に語る文化が弱い。親世代自身が体系的な性教育を受けていないため、家庭でも話題にしづらい。この構造が繰り返されています。
さらに日本特有なのは、「純潔教育」と「自己責任論」が混ざりやすいことです。性被害や妊娠について、「なぜそうなったのか」と個人側に責任を求める空気がまだ残っています。そのため教育も、「危険だからやめましょう」という抑制型になりやすい。しかし現代はSNS、動画サイト、ポルノ、AI生成画像などを通じて、子どもたちは学校外から大量の性情報を得ています。もし学校が教えなければ、断片的で歪んだ情報だけが先に入ってしまう危険があるのです。
本来の性教育は、「性交を教えるか否か」という単純な話ではありません。むしろ重要なのは、「人間の尊厳」「他者との関係」「自分の身体を守る力」をどう育てるかです。
たとえば本来の性教育には、身体の発達や妊娠の仕組みだけでなく、同意とは何か、断る権利、境界線、デートDV、SNS上の性被害、性的搾取、AV出演強要、性暴力、ジェンダー、さらには「好きにならなくてもよい」「恋愛しなくてもよい」といった価値観まで含まれます。つまり「生き方の教育」に近いものです。
特に現代日本では、少子化対策とも実は深く関係しています。恋愛や結婚、妊娠出産を「怖いもの」「失敗が許されないもの」としてしか学べない社会では、若者は対人関係そのものを避けやすくなります。性教育とは単なるリスク管理ではなく、人間関係を築く力や安心感を育てる側面も本来は持っているのです。
もちろん、海外型をそのまま輸入すればよいわけでもありません。文化や宗教観、家庭観の違いがあります。日本では保護者の価値観の幅も大きく、急激な変更には反発も起きます。また「学校がどこまで介入するのか」という問題もあります。そのため必要なのは、単なるイデオロギー対立ではなく、「子どもを現実から守るには何が必要か」という視点でしょう。
現在の日本では、性教育を巡って「教えすぎだ」という声と、「現実に追いついていない」という声が同時に存在しています。しかし少なくとも、インターネット以前の「知らなければ防げる」という時代ではなくなっています。だからこそ今後は、単なる禁止や曖昧化ではなく、「正確な知識を、年齢に応じて、尊厳と責任を含めて教える」という方向が求められているのだと思われます。
0コメント