「宇田川源流」【マスコミ批判に関する一考】 国内政局や高市批判ばかりで事実や国際的な評価を無視する日本のメディアに将来はない

「宇田川源流」【マスコミ批判に関する一考】 国内政局や高市批判ばかりで事実や国際的な評価を無視する日本のメディアに将来はない


 毎週火曜日と木曜日は、通常は「日本報道検証」を音置けしているのであるが、たまに、昔毎週月曜日の連載していた「マスコミ批判に関する一考」を、ネタがあるときには入れてみようと思っています。今回は、たまたま週刊新潮の記事と時事通信の記事におもしろい内容が重なって出てきたので、その内容を見てみようと思います。かなり久しぶりですが、マスコミ批判をしてみようと思っております。

さて、マスコミ批判に関する一考とは、私が昔国会新聞社という新聞社にいたことから、本来の「ジャーナリズム」のあるべき姿ということを考えいたのですが、今の日本のマスメディア・マスコミは、少なくとも私の理想とするジャーナリズムの姿とは全く異なるモノであり、まさに「国民を自分たちの考えた方向に扇動する、政治装置」になってしまっていたのです。そのうえ、その扇動が中国や韓国など他の国の、とくに左翼的な国々の意向を受けて日本をあらぬ方向に動かそうとしていたのは、本当に困った存在でした。そこで、すでに今から約20年前くらい、私がブログを始めた時代から、「マスコミ批判に関する一考」を通じて、日本のメディアの問題点や、「批判精神」などという言葉で国民をごまかして政府批判や、反日報道を繰り返す姿を伝えてきたのです。

さて、この連載そのものは終わらせましたが、メディアのおかしさはいまだに替わっていません。ただしSNSの発達と、我々のこのような活動によって、メディアのおかしさは徐々に国民の知るところになっていったのです。メディアの信用力は失われ、また、選挙の際には、メディアの応援する候補は敗北し、批判する候補が当選するというような状況が続いてきています。「オールドメディアの敗北」というのは、まさに今の状況の事ではないかという気がします。やっと「オールドメディアの敗北」の萌芽が出てきたということが思えるようになったのです。

さて、今回もそのような内容を見てみましょう。

<参考記事>

「高市政権にケチをつけたいだけで…」 『朝日新聞』がこき下ろした高市首相に『NYタイムズ』は“真逆の評価”

2026年3月25日 12時32分 デイリー新潮

https://news.livedoor.com/article/detail/30839799/

BBCの次期会長はTV経験なし

2026年03月26日 07時07分時事通信

https://news.nifty.com/article/world/worldall/12145-5073625/

<以上参考記事>

 同じ「日米首脳会談」という一つの事象を扱っていながら、国内メディア(特に朝日・毎日)と海外メディア(NYタイムズ等)の間で、これほどまでに評価が「真逆」になる現象は、今の日本の言論空間を象徴する非常に興味深い、かつ根深い問題ですね。

 なぜこれほどまでに視点が乖離し、日本のメディアが「政局」や「批判」に終始してしまうのか。その背景にある構造的な要因を、いくつかの側面から紐解いていきましょう。

 海外メディア、特にアメリカの主要紙が日本の首相を評価する際、その最大の基準は「地政学的な安定と戦略的パートナーとしての実力」にあります。NYタイムズやワシントン・ポストからすれば、台頭する中国への抑止力として、日本が防衛力を強化し、揺るぎない同盟関係を維持できるリーダーを戴いているかどうか、という「結果」がすべてです。そのため、高市首相の毅然とした外交姿勢や防衛政策の具体化は、彼らにとって「頼もしいパートナーの出現」と映り、ポジティブな評価(ポジティブ・フレーム)に繋がりやすくなります。

 一方で、日本のいわゆる「オールドメディア」は、戦後一貫して**「権力の監視者」という名目のもと、「現状変更への警戒」を社是とするリベラルなイデオロギー**を堅持しています。高市首相が掲げる靖国参拝への理解や憲法改正、国防軍の議論などは、彼らにとって「戦後平和主義の危機」という絶対的なタブーに触れるものです。そのため、会談の実質的な成果(共同声明の内容や経済安全保障の合意)よりも、首相の「立ち居振る舞い」や「歴史認識」といった、批判しやすい部分をクローズアップする「フレーミング」が優先されるのです。

 ここで起きているのは、単なる「誤報」ではなく、意図的な「フレーミング(切り取り)」の問題です。

 メディア・フレーミングとは、特定の事象の中から一部の要素だけを強調し、それ以外を排除することで、受け手に特定の印象を植え付ける手法のこと。

 朝日新聞や毎日新聞が、晩餐会での和やかな写真や首相の笑顔を「媚びを売っている」と批判的に報じるのは、彼らが描きたい「危うい右翼政治家」という物語(ナラティブ)に沿わない「外交的成功」という事実を、読者の目から逸らそうとする心理的バイアスが働いているからです。彼らにとっての「正しい情報」とは、客観的な事実の積み上げではなく、「自分たちが理想とする社会像(あるいは政権打倒)」に寄与する情報、というすり替えが起きてしまっている懸念があります。

 かつて、新聞やテレビが情報の独占権を持っていた時代には、この「国内メディアのフィルター」が唯一の真実として通用していました。しかし、現在はSNSやネットを通じて、海外メディアの原文や、公式な外交文書に誰でも直接アクセスできます。

 国民が「NYタイムズはこう報じているのに、なぜ朝日はこれしか書かないのか?」と気づき始めたとき、メディアは「権力の監視者」から「情報の歪曲者」へと格下げされて認識されます。政局批判ばかりに終執し、肝心な安全保障や経済の具体的進展を報じない姿勢は、結果として「国民の知る権利」をメディア自らが侵害していることになり、それが「メディア不信」の決定打となっているのです。

 「支持率を下げるような写真しか出さない」といった報道現場の本音が漏れ聞こえる現状では、メディアが自浄作用を働かせない限り、この乖離はさらに広がり、伝統的な報道機関は「一部の信奉者のための同人誌」へと形骸化していくリスクを孕んでいます。

 メディアの「偏り」が具体的にどのような記述として現れるのか、3月19日の日米首脳会談を例にとって、その筆致の違いを解剖してみましょう。

 まず、海外紙(ニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナル等)がこの会談を報じる際、主役となるのは「日米同盟の機能強化」という大きな地政学的な枠組みです。彼らの記事では、今回の会談で合意された防衛装備品の共同開発や、指揮統制の連携深化といった具体的な「成果」が、アジア全体の軍事的バランスをどう変えるかという視点で語られます。記述としては「戦略的な転換点」「強固な抑止力の構築」といった、前向きで力強い動詞や形容詞が多用されるのが特徴です。そこには、日本という国が国際社会の中で果たすべき「役割」に対する期待が投影されており、個人のスキャンダルや国内の細かな反対意見は、大局を揺るがすものではないとして、あえて捨象(あるいは簡略化)される傾向にあります。

 これに対して、朝日新聞や毎日新聞といった国内メディアの記述は、視点が「永田町の論理」や「手続き論」に著しく固定されています。彼らの記事では、首脳会談の中身そのものよりも、その決定に至るプロセスがいかに「強引」であったか、あるいは「国会軽視」であるかといった、国内政治の対立軸を強調する言葉が並びます。例えば、外交上の大きな進展を報じる際も、冒頭に「野党からの反発は必至だ」といった不穏な枕詞を置くことで、読者に「これは問題のある事象だ」という予断を与えます。晩餐会での写真についても、外交プロトコルとしての和やかさを伝えるのではなく、「国民が物価高に苦しむ中で豪華な食事に興じている」といった、情緒的な不満を煽るコンテキスト(文脈)で切り取るのです。

 この違いを生む最大の要因は、情報の「選択」と「修飾」にあります。海外紙が「何が決まったか」という事実(ファクト)を核に据えるのに対し、国内の一部メディアは「その事実をどう解釈し、政権批判に繋げるか」という目的(インテント)を先に設定しています。その結果、本来報じられるべき共同声明の技術的な詳細や経済安保の進展といった「硬いニュース」は紙面の端に追いやられ、代わりに「誰が誰と笑っていたか」「誰が不快感を示したか」といった、より感情に訴えかけやすい「柔らかい政局ニュース」が中心に据えられてしまいます。

 このような報道の姿勢は、情報リテラシーの高い層から見れば、意図的な「情報の隠蔽」や「印象操作」と映ります。海外の原文に触れられる現代において、国内メディアが特定のイデオロギーに沿った情報ばかりを選別して提供し続けることは、情報の非対称性を逆手に取った旧来の手法が通用しなくなっていることを示唆しています。彼らが「正しい情報を伝えていない」と批判されるのは、単に嘘をついているからではなく、全体像の中の極めて小さな、かつネガティブな一部を、あたかも全体であるかのように拡大して見せ続けているからに他なりません。

 さて、海外でもしばらく前にこのような問題がありました。そこで、イギリスのBBCでは会長がテレビ経験のないSNS出身者になりました。イギリスが、メディアとSNSという事やリテラシーの問題をしっかりと考えているという事であろうと考えられます。

イギリスのBBCが、放送業界の「門外漢」である元Google幹部のマット・ブリッティン氏をトップ(事務局長)に据えた決断は、まさにメディアの存亡を賭けた「劇薬」の投入と言えます。彼らはSNSやデジタル技術を単なる「道具」としてではなく、現代の情報の流れそのもの、つまり「インフラ」として捉え直そうとしています。一方で、日本でこのようなダイナミックなトップ人事や変革が起きにくい背景には、この国のメディアが長年守り続けてきた独特の「参入障壁」と「成功体験」の呪縛があります。

 まず大きな要因として挙げられるのが、日本のメディア業界特有の「記者クラブ制度」という閉鎖的な互助システムの存在です。このシステムは官公庁や大企業から排他的に情報を得るための特権的な仕組みであり、そこでは「ルールを知り尽くした内部の人間」であることが何より重視されます。SNS出身者のような「透明性」や「情報のフラット化」を重んじるリーダーがトップに座れば、この密室的な情報収集の文化そのものを破壊しかねません。既存のメディア上層部にとって、それは自らの特権を放棄することと同義であり、防衛本能が働くのは避けられない構造になっています。

 また、日本の企業文化に根ざした「年功序列」と「プロパー(生え抜き)至上主義」も、外部の血を入れることを困難にしています。大手新聞社やテレビ局のトップは、入社以来数十年にわたって社内の力学を泳ぎ抜き、現場の苦労を共にしてきた人物が務めるのが「伝統的な正義」とされています。そこに、番組制作や記事執筆の経験が一切ないデジタルネイティブが降臨することは、現場のプライドや指揮系統を著しく損なうと懸念されてしまうのです。結果として、変化よりも「組織の和」を優先する人事が繰り返され、メディアが時代の潮流から取り残される悪循環が生まれています。

 さらに、放送事業が総務省による「免許事業」であるという点も無視できません。日本において放送局を経営することは、規制当局との緻密な調整の連続です。行政の論理を理解し、政治的なバランス感覚に長けた「安全な人物」が選ばれやすい土壌があるため、SNS的な、時に過激で破壊的なスピード感を持つリーダーは、経営リスクとして敬遠されがちです。イギリスのBBCが、チャーター(王立憲章)の更新や巨額の訴訟といった危機を乗り越えるために「未知の力」に賭けたのに対し、日本のメディアは依然として「昨日までのやり方の延長線上」に解決策を求めようとする傾向が強いと言えるでしょう。

 このように、リーダーシップのあり方一つをとっても、日本とイギリスでは「情報」に対する向き合い方が決定的に異なります。イギリスが「情報の不確実性」を前提に、それをコントロールできる技術者を招き入れたのに対し、日本のメディアは「情報の権威」を守るために、門を閉ざし続けているのが現状です。国民の信頼を失いつつあるという危機感はあるものの、それを打破するための「痛みを伴う自己変革」を選択できるほどの柔軟性は、まだ日本の既存メディアには備わっていないのかもしれません。

宇田川源流

「毎日同じニュースばかり…」「正しい情報はどうやって探すのか」「情報の分析方法を知りたい」と思ったことはありませんか? 本ブログでは法科卒で元国会新聞社副編集長、作家・ジャーナリストの宇田川敬介が国内外の要人、政治家から著名人まで、ありとあらゆる人脈からの世界情勢、すなわち「確実な情報」から分析し、「情報の正しい読み方」を解説します。 正しい判断をするために、正しい情報を見極めたい方は必読です!

0コメント

  • 1000 / 1000