「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 不幸は続くとして歌麿家族のふこうと人間関係の変化
「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 不幸は続くとして歌麿家族のふこうと人間関係の変化
毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について好き勝手感想を書いている。それでも一応歴史小説作家なので、ドラマの中身に入る前に、歴史についてみてみよう。今回は、中村隼人さん演じる長谷川平蔵が作った「石川島忍足寄せ場」を見てみよう・
江戸後期、都市部への人口集中や飢饉・失業による無宿者の増加に対処するため、幕府や藩は「人足寄せ場」と呼ばれる受容施設をつくり、無宿者や軽犯罪者に仕事と生活の場を与えて更生を図る政策をとった。石川島(現在の佃付近)に設けられた人足寄せ場はこの流れの一つで、1790年前後に設置され、当初は無宿の者や漂流・脱藩者などを集め、仕事を割り当てることで治安と社会秩序の維持を目指した施設であった。
長谷川平蔵の時代(18世紀末?19世紀前半)には、人足寄せ場の考え方がより体系化され、「更生」のための職業訓練や報酬の仕組みを組み込む形で制度化が進んだ。石川島の寄せ場は職場を持ち、造船や大工、土木などの実務を通じて技能を身につけさせ、賃金を一部積立てて釈放時の資金に充てる仕組みを採った点が特徴である。この時期に「単に隔離するのではなく仕事と教育で社会復帰させる」という理念が強まり、石川島の寄せ場は単なる収容所から職業更生施設へと性格を変えていったことが記録されている。
石川島の寄せ場では、収容者に対して日常的な労働を割り当て、賃金の一部を積立てさせ、休養日や月例の行事、道徳教育や心学(教説)の講義などを行って精神面の安定と生活習慣の確立も図った。軽犯罪者については一定期間の収容と労働を課し、場合によっては身柄の引受け(引き渡し)や外部での就労紹介を通じて社会復帰を支援したとされる。
幕末から明治にかけての社会変動のなかで、石川島の地域は造船・機械工業の進展とともに急速に近代化した。石川島の造船所や関連工場はやがて近代企業へと発展し、寄せ場のかつての役割は次第に刑事施設や公的更生機関へ吸収されていった。石川島の地名や施設はその後の都市改変や産業転換の中で変容し、やがて近代的な監獄・更生施設の系譜に組み込まれていったことが示されている。
石川島の人足寄せ場は、江戸後期における治安対策と社会福祉的な更生政策が交差した実践場であり、単なる収容ではなく職業訓練・積立金・道徳教育を組み合わせた先駆的な試みとして評価される。明治以降の制度変化や産業化によって形を変えたものの、近代的な刑事・更生制度成立の前史として重要な位置を占めている。
<参考記事>
「べらぼう」梅毒巡る凄惨な展開に衝撃…不可解な描写に考察も
2025年10月5日 20時55分
https://www.cinematoday.jp/news/N0151188
<以上参考記事>
ドラマにおいて「親しい人の死」「愛する人の死」ということは、登場人物の人間関係を壊す。基本的に物語を作るときには、人間の性格や人間の習慣、そしてその人間関係は基本的には変わらない。このことはすでに、新之助(井之脇海さん)とふく(小野花梨さん)の時に書いたと思う。
今回は喜多川歌麿(染谷将太さん)ときよ(藤間爽子さん)の間で起きてしまった。きよは、ずっと苦労していたが、その苦労で梅毒に罹っていたということになる。そのきよをずっと見ている歌麿の姿は、本当に悲しくなる内容ではないか。現代でも、「不治の病」」で死にゆく愛する存在に対して、ずっと見ているしかない。最後にきよが亡くなった場面では、ずっと見ていて自分の生活もすべて放置してしまった歌麿が、無精ひげを生やしていたという細かい描写などもかなりうまくできている。現在のドラマや映画でも、「君の膵臓を食べたい」とか「366日」とか、少し古いところでは「世界の中心で愛を叫ぶ」など相手が死んでしまうというような話はたくさんある。その内容は、最期を「見守る」しかなかったのである。現代でも見守るしかないのである。今よりも治療方法が少なく、また病気も不明な部分が多い所があった。その時代には、病気は運命として受け入れるしかなく、神に祈るか、または見守るしかないのである。
そして「まだ死んでいない」という歌麿も、それが無理な主張であることもわかるし、また、その気持ちはわからないこともない。そしてこれで歌麿と蔦屋重三郎(横浜流星さん)の関係が変わってしまうということも見えてくるのではないか。
さて、寛政の改革派出版統制にまで行った。間違いなく、松平定信(井上裕貴さん)が自分の主義主張をそのまま押し通した結果である。当然に、庶民の娯楽を奪ってしまっては、大きな問題になるし、また市中では政府に対する恨みがある。ある意味で「娯楽」は「政府に対する不満のガス抜き」である。それを禁止したということと、一方で守ろうとしている出版業界の人々ということになる。現在でいえば、風俗営業の規制などと同じであると思えばよいのではないか。ある意味でその様にしてみれば何となく見えるようになる。
そして、その本の業界を守ろうとして、長谷川平蔵に依頼し、上方の動きなどをしている。実際に、「寛政の改革」も「江戸とその周辺に目の届く場所」出しか行われない。今回のドラマでも見えるように、各藩は幕府とは違う法体系で行われるので、幕府の方針を尊重しながらも、幕府の命令に従う必要はないということになっている。その様に考えれば、上方といわれる京都や大阪は、出版の規制が別になるということも、今回のないようになっているのである。
その出版業界が、様々な意味で危機になっている。田沼時代のような「自由」から松平定信の寛政の改革での「規制」になる。その様々な歪みが、まず歌麿家族の不幸という形で出てきている。
そのように見えれば、政治家の意固地な政策などが、松平定信にしてみればよいことをしているようであったが、庶民にとっては地獄、何か今の政治を思い出すような感じではないか。
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