「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 大噴火の中で「つまらないことだから遊びに変える」こと

「宇田川源流」【大河ドラマ べらぼう】 大噴火の中で「つまらないことだから遊びに変える」こと


 毎週水曜日は、NHK大河ドラマ「べらぼう」について、好き勝手に書かせてもらっている。本当に単なる感想でしかないし、また、この江戸時代の平和な時代などはあまり詳しいわけではない。小説もまともに書けるような状態ではないので、本当に感想でしかないという感じであろう。

さて、一応歴史小説作家なので、歴史的な事実を見てみよう。今回は「天明の噴火」である。

江戸時代の天明3年7月8日、現在の群馬・長野県境に位置する浅間山が噴火をした。記録などから現代流に言うと、浅間山の噴火の兆候は天明3年4月9日から始まり、7月7日夜から翌朝頃に最盛期を迎え、結果的に約90日間続いた噴火であった。大規模なマグマ噴火であり、山体崩壊や二次爆発などが発生した。噴出物総量は4.5×108m3、マグマ噴出量は0.51 DRE km3、火山爆発指数はVEI4、噴火マグニチュードは5.1であったとされる。

大爆発音は遠く京都や中国・四国などでも聞こえたと伝わる。約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊し、有名な「鎌原火砕流・岩屑なだれ」となって、鎌原村を壊滅させ吾妻川沿いの村々を田畑や家屋ごと飲み込みながら流れ下り、渋川で本流となる利根川へと入り込んだ。浅間山の北側斜面には大規模な溶岩流が流れ下り、後に凝固した。これがいわゆる鬼押出し溶岩であり、今では観光名所となっている。

被害は、死者 1,624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上)流失家屋 1,151戸、焼失家屋 51戸 倒壊家屋 130戸余りとされている。

浅間山の天明大噴火は、天明の大飢饉の原因の1つにもなったと広く認識されている。各地に大量の火山灰を降らせて激しい凶作をもたらしたため、既に各地で進行していた大飢饉に拍車をかけて、結果的に天明の大飢饉をより深刻なものとした。一方で同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火(天明3年3月12日)するばかりか、アイスランドのラキ火山の巨大噴火(6月8日)やグリムスヴォトン火山の長期噴火等も起き、北半球全体が低温化し作物の凶作を招くことになる。

噴火災害により作物がほぼ全滅して深刻な食糧不足が起きたため、上野国・信濃国では百姓一揆や打ちこわしが発生した。これを天明上信騒動という。米価が高騰し、米屋の買占めなどがあり、中山道の馬子・人夫・駕籠かきらが米屋を襲撃した。1783年当時は、老中田沼意次が幕府の実権を握っていた田沼時代であったが、大噴火が一因となった大飢饉とそれに伴う百姓一揆などの結果として、田沼意次を失脚に追い込んだものと考えられている。

<参考記事>

大河「べらぼう」蔦重(横浜流星)結婚、“ライバル”鶴屋(風間俊介)の祝儀に視聴者沸く「感動の和解」「なんて粋な贈り物」

6/30(月)モデルプレス

https://news.yahoo.co.jp/articles/d5003aedbf8cf506935db66ef9559c161a1c9a7a

<以上参考記事>

 「自分を嫌っている人々に、どの様に好かれるか」ということは、多分、人間の永遠の課題なのではないか。蔦屋重三郎(横浜流星さん)もそのことに悩んでいた。現代の人々は「パワハラ」と言ってみたり「いじめ」」と言ってみたり、何かを訴えることによって、誰かに助けを求め、そして自分の窮状や悲惨さを訴えることで、誰かに助けてもらえるというような「他人に頼る」ということになってしまっているのです。しかし、蔦屋重三郎は、どうしてもできないことなどは助けてもらうが、それ以外は、何とか自分で工夫するということで切り抜けてゆくということではないか。これは現代を生き、そしてすぐにくじけてしまったり、自分で努力をしないで依存している人々に対して、かなり強烈なメッセージではないかと思う。

初回であったか、二回目であったか、このドラマにおいて、「吉原のために」と言って、蔦屋重三郎が田沼意次(渡辺謙さん)の所に行った時に「お前は何をしたのか」ということを言われ、蔦屋重三郎が気づく事になります。まさに、その「お前は他人(この場合は田沼意次に)の力を頼る前に、自分自身でできることをやりつくしたのか」ということが一つの「教訓」担っている。このような教訓は、現代の人々にも絶対に必要な内容ではないのか。

蔦屋重三郎は、考え抜いた中で、まずは自分でできないことを依頼に行った。吉原者が日本橋に出てはいけないというお触れの例外を依頼したのだ。これは「お触れ」つまり法律なので、蔦屋の単独ではどうにもならない。しかし、逆に田沼様にお願いしたのはそこまでである。

その後、店名の浅間山の大噴火の中で「火山灰の掃除」ということを買って出た。それだけではなくそれを「つまらないことだから遊びに変える」ということを行い、見事に日本橋の人々の心をつかんだ。辛いことを自分で率先して行い、そして多くの人を巻き込んで、一緒に遊びとして行う。

現代でもそうだが「遊び」「趣味」が人をつなげる。お互いがもっとも分かり合えるのはそのような時であり、人間性が出る。そして結果が出れば、皆満足する。災害の時などはなおさらそうだ。そのことを蔦屋は自分で行ったのである。

貞(橋本愛さん)もそんな蔦屋を見直してゆき、最終的には祝言を上げる。そして今までライバルであった鶴屋(風間俊介さん)も、蔦屋の存在を認めのれんのプレゼントをするということになる。今まで認められなかった人が、曾野よ様にして認められてゆくということが、何かジーンとくるところではないか。現代の人々がこの物語を見て、何かを感じてくれたらよいのではないか。私自身は何かというとハラスメントというような風潮よりも、こうやって分かり合える姿の社会こそが、本当の社会なのではないかという気がするのだが、いかがであろうか。

さて、一方の田沼意知(宮沢氷魚さん)と誰袖(福原遥さん)は、新たな展開を迎える。そのような中に、再び松前広年(ひょうろくさん)が現れるという展開である。ドラマには全く書かれていないが、一橋治斉(生田斗真さん:今回は登場せず)の陰謀の影が見えてくる。そして、この二人、つまり田沼意知と誰袖の将来の不幸を予見させる「証明を落とした暗い演出」と「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」という西行法師の辞世の句といわれる歌である。作業とい桜を愛した法師であり佳人である西行が亡くなる10年前に自分の理想の死について詠んだ和歌であるが、同時に「やり残したことはない」というような意味合いもある和歌である。うまくいった、やり残したことはないというのは、そこで何かが終わってしまうということと、同時に、油断が出てくるという事であろう。そこに大きな落とし穴があることを暗示していたのではないか。

来週以降の内容が楽しみである。

宇田川源流

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