「宇田川源流」【日本報道検証】 NHKの偏向報道クルド人擁護番組の報道の信頼を棄損した罪
「宇田川源流」【日本報道検証】 NHKの偏向報道クルド人擁護番組の報道の信頼を棄損した罪
毎週火曜日と木曜日は、「日本報道検証」として、まあニュース解説というか、またはそれに関連するトリビアの披露とか、報道に関する内容を言ってみたり、または、報道に関する感想や社会的な問題点、日本人の文化性から見た内容を書き込んでいる。実際に、宇田川が何を感じているかということが共有できれば良いと思っているので、よろしくお願いいたします。
さて、今回は、埼玉県川口市のクルド人問題、そしてその内容に貸してクルド人の用語だけを報道し、公平平等の立場での報道を完全に放棄してしまったNHKの「報道の信頼性棄損の罪」ということを見てみたいと思います。以前、このブログが始まったころで、まだ「宇田川源流」ではなく「ニュースのC級解説」のころ、「マスコミ批判に関する一考」という連載を毎週月曜日に行っていた。日本のマスコミ報道に関しては、非常に大きな問題があり、公平性も中立性もなく、なおかつ意見がwか荒れていることに関して、双方の意見を並列して報道するというような内容が全くできない。その為に、選挙などによって報道の規制(本来は自主規制)があると、政治報道が全くできなくなってしまう。逆に言えば、偏向報道しかできないのであれば、それは「一方の意見の表明」出しかなく、報道ではない。ましてや、「国民全体から放送費用を強制的に徴収している公共放送」の立場であればなおさら様々ならば広い意見をしっかりと報道すべきであろう。
しかし、残念ながらNHKはそのような「公共放送」というような感覚が全くない状態になっており、片方の意見だけを、それもことさら「偏向放送」をしている。
NHKに関しては、以前より「偏向報道」が強いというようなことが言われている。現在では多少批判も多くなった「NHKから国民を守る党」の立花孝志が、一度参議院議員になっているのは、「NHKをぶっ壊せ」という掛け声がある程度国民に受け入れられていたからであり、ある意味でそのころからNHKの信用という野茂は失われている。そのような「信用できないで、公共電波を片方の意見だけで私物化する集団」に強制的に金銭を税金のようにとられているのだから、国民の反発は大きなものであろう。
そのような社会現象が出てきているのに、全く反省がないということが、今回の問題の根源である。
<参考記事>
NHKの川口クルド人特集 「偏向」批判など受け異例の修正へ 再放送延期、公開質問状も 「移民」と日本人
4/17(木) 産経新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/ff717d04c3c9388e432fe4b83fc67a645b071463
NHK会見、川口クルド特集に質問集中「偏向との意見は承知」「取材深めた上で」一問一答 「移民」と日本人
4/17(木) 産経新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/6f388b400c9f17811b5acc02ac1de6e58f1ebfdc
<以上参考記事>
そもそも移民問題というのはどのようなことなのであろうか。
移民問題というので問題があるのかもしれないが、実際は「民族間紛争」という感覚でとらえなければならない問題である。日本の場合は、基本的には日本人の生活というものは、沖縄から北海道まで同じ文化、同じ生活習慣で生活しているから、あまりよくわからない。日本の人々に対して異民族ということが問題になったことはあまり歴史上大きくはないのである。
では「民族問題」というのはいったい何であろうか。
単純に「生活習慣」だけではなく「生きていくうえで大事にしている価値観」も全く異なるということが大きな違いになる。そしてそのことが「相手の大事にしているものを怪我したり奪ったり壊したりしてしまう」ということであり、そのことが大きな問題になるのである。これが、「一つの国」の中で、または「同一の生活圏」の中で問題が起きた場合にはどのようになるのであろうか。
例えば、今日本の老人たちが子供の遊ぶ声が嫌だ、うるさいといって、近くに幼稚園があったり、または公園があるということを忌避するということがあった、確か長野県の問題である。では、このことが、「イスラム教徒が近くにいて、日に5回コーランの詠唱が大音響で響いてきた」ということになった場合に、それが許容できるのであろうか。子供遊ぶ声で我慢できない人々が、毎日5回コーランの詠唱が行われるのである。私がインドネシアにいたころ、一日5回、町の中の公共のスピーカーで大音響でコーランの詠唱が流れたのであるが、そのような生活環境で「イスラム教が迷惑」などといえば、相手は「神を馬鹿にした」ということで騒動になる。最悪の場合は殺し合いになるである。現在のイスラエルとハマスの戦争も、また、2012年のパリの雑誌編集部襲撃事件も同じことなのである。
これは宗教の問題ではなく、民族でも同じであろう。たとえば、普段全裸で生活をする民族(アフリカや東南アジア・南アメリカなどに散見される)が、日本において自分の文化を重視するといって、日本国内で全裸で生活し、なおかつ、その生活を近所の人々に教養知ればどのようなことになるのであろうか。警察がわいせつ罪で逮捕すれば、それに対して「民族差別である」と集団でデモを起こした場合、どのようになるのであろうか。民族の違いということはまさにそのようなことなのである。
日本の場合「相手に迷惑をかけないように他者に気を遣う」「他者との関係性を重視する」という文化性があり、そのことから「助け合い」や「社会の目を気にする」「恥の文化」というようになっているが、このことが重視されるのであるが、その文化性を理解しないで来る外国人に対して当然に反感を持つのは当然の国であろう。
単純に、各文化の持つ生活圏があり、クルド人はすでにトルコ政府と和解しているのであるから、当然に居場所はある。実質的にないとかそういう議論は、少なくとも日本でする必要がない。つまり日本において既にクルド人が難民申請をして居住する正当の理由はないということになるのである。その様に「正当の理由もないで日本にいるクルド人を擁護する」ということをしてよいのであろうか。よく「不法移民」というが「訃報」つまり「法律に違反している人」を公共電波で擁護するなどということが、許されるのであろうか。難民又は移民という事であれば、「正当な手続きをして行うべき」ということであり、違法者を擁護するようなことはあり得ないでしょう。ある意味でクレームが多くて当然なのである。
公共放送として「中立・公平」の放送をすべきであり、それができないならば、放送をやめるべきではないだろうか。
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