「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 長徳の変そのあとの「それぞれの旅立ち」

「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 長徳の変そのあとの「それぞれの旅立ち」


 毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、勝手に様々書いている。一応歴史小説家として、様々な内容を感じるだけではなく、「脚本の妙」とか「演出の妙」ということを書いている。特に平安時代の内容をドラマとして書いているのであるから、なかなか大変であろう。「歴史と違う」とか「こんなのはおかし」というのは、簡単なのであるが、「今そのように言っている人も、平安時代の日本を見たことはない」のであるから、それをどのように解釈するかということは、そこはその世界観に浸るということが重要なのではないかと思う。

さて、今回から「越前編」ということになる。紫式部であるまひろ(吉高由里子さん)が父藤原為時(岸谷五朗さん)の越前国司任命赴任にしたがって一緒に越前に下るということになる。この藤原為時が越前国司に任じられたことに関しては「古事談」にこのようなことが書かれている。

<一条天皇の時代に源国盛が越前守に任ぜられた。藤原為時は「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上、一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた。藤原道長が参内してこれを聞き、自分の側近(『今昔物語集』では乳母子)で、越前守に任じられた(おそらく道長の推挙と想定される)ばかりの源国盛を呼び越前守を辞退させて、代わりを藤原為時とする除目を行った。その時、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ、国盛は衝撃のあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまった。>

この件は、前回のお話の中に会ったとおりである。ある意味で、このエピソードの記録に従った内容で書かれているのが面白いところである。

この越前国国府は、今のところ発掘されていないので場所は未定とされているが、今の越前市の辺りであろうとされており、現在も越前市に紫式部公園や、今回の大河ドラマ館がある。ちなみに、式部が生まれたのは、天延元年(973年)とする説が有力なようですが、それに従えば、23歳のころということになる。そして、紫式部が帰郷するのは、式部が越前からふたたび都にもどったのは、長徳3年(997年)の晩秋から初冬(一説には長徳4年春)であったとされている。父の任期中に一人で帰京することになるのである。さて、その越前の内容はどのように書かれるのであろうか。

『光る君へ』別れのキスシーンにネット悶絶「まひろからは初めてじゃない!?」

 俳優の吉高由里子が主演を務める、大河ドラマ『光る君へ』(毎週日曜 後8:00 NHK総合ほか)の第21回「旅立ち」が、26日に放送された。

 第21回は、定子(高畑充希)が髪をおろしたことは内裏に広まり、一条天皇(塩野瑛久)はショックを受ける。任地に赴くことを拒み逃亡する伊周(三浦翔平)を実資(秋山竜次)らが捜索し、やがて発見するが…。定子を守ることができず落胆するききょう(ファーストサマーウイカ)を励ましたいまひろ(吉高由里子)は、中宮のために何かを書いてはどうかとアドバイスする。越前へ旅立つ日が近づき、まひろは道長(柄本佑)に文を送り…というストーリーだった。

 物語終盤、まひろと道長の密会シーンでは、越前へと旅立つまひろが「この10年、あなたを諦めたこと、後悔しながら生きてまいりました。妾でもいいからあなたのそばにいたいと願っていたのに、なぜあの時、己の心に従わなかったのか。いつもいつもそのことを悔やんでおりました」と告白した。

 そして抱きしめあった2人の“別れのキスシーン”が描かれ、視聴者からは「きゃー!!」「まひろからは初めてじゃない!?」「10年間の想いの吐露、今度こそ断ち切るという決意、からのキス。道長の心ぐっちゃぐちゃなんじゃない? 視聴者は叫び出したかったです」「あなたと共に滅びるのもよかったかもって愛だよね…。なぜ2人は公に結ばれないのか!!!!!」などの声が寄せられている。

 主人公・紫式部/まひろは、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書きあげた女性。「光源氏」の恋愛ストーリーの原動力は秘めた情熱と想像力、そしてひとりの男性への想い。その男性の名は藤原道長。変わりゆく世を自らの才能と努力で生き抜いた女性の愛の物語だ。脚本は大石静氏が務める。

5/26(日) 2オリコン

https://news.yahoo.co.jp/articles/11f61533587a5c3c88b567f7e303efe2f3cdecea

今回は、長徳の変の後始末から始まった。基本的に潔くない伊周(三浦翔平さん)の態度が見えてきて、道長とは全く潔さが違うという感じであろう。ちなみに、以前のまひろと道長(柄本佑さん)の密会の場面で「二人で逃げよう」というように言った内容とうまくリンクさせている。「二人で駆け落ちする」とした道長と、意地でも都に残りたいと見苦しい姿を見せた伊周の対比、そしてその二人の望んだのとは逆の結果をうまく描き出している。何度も書いているが、大石静さんの脚本は「伏線」と「対比」を楽しみ、そこに人間性が見え隠れする内容になっている。その内容が見えていれば、非常に面白く見えるのではないか。

長徳の変のもう一つは、中宮定子(高畑充希さん)の覚悟だ。中宮定子は、特になんの悪いこともしていない。兄弟であったというだけで「暫く謹慎する」という事であったはずが、一条天皇から「捨てられた」と定子が解釈したことによって、自ら髪を下ろし出家することになる。つまり、自分で退路を絶ってしまったということになる。これも伊周とは全く異なる覚悟の決め方でうまく対比ができている。しかし、そこまでする必要がないとした、一条天皇の公開をこれから誘うことになる。そして、その中で清少納言(ファーストサマーウイカさん)がその中の読み物として枕草子を執筆するということになる。執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上したとき、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答し、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜されたと記されている。このエピソードを巧みに使い、肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ないところを愚魏のようなエピソードでまとめている。

高価な紙に帝が司馬遷の「史記」を書き写した際、中宮が「わたしは何を書けば」と意見を仰ぎ、清少納言は「枕詞を書かれてはいかがでしょう」と答えたという。「帝が司馬遷の“史記”だからききょう様は春夏秋冬の“四季”とか」(まひろ)、「まひろさまは言葉遊びがお上手なのね」(清少納言)といった知的な会話。これが枕草子の「まくら」の意味ということになっているのである。中宮定子の心を案じて、明るい話題ばかりを選んだ清少納言を、すべて「言葉遊び」としているところに「文学作品を扱ったドラマ」を思わせるのではないか。

そして、最後の場面。旅立つまひろと道長の場面である。過去二回、道長とまひろの密会場面がある、一回目は濃厚なラブシーンでNHKでこんな映像はよいのかというような内容であり、二回目は、まひろに「昔のおのれに会いに来たのね」と心の中で言わせてすれ違いを演じさせている。

今回は、「この10年、あなたを諦めたこと、後悔しながら生きてまいりました。妾でもいいからあなたのそばにいたいと願っていたのに、なぜあの時、己の心に従わなかったのか。いつもいつもそのことを悔やんでおりました」と告白した内容であろう。すれ違いをすれ違いと認め素直に悔やんでいたというまひろ。それに対して何も言わない道長。でも道長はその前に「お前の文字はすぐにわかる」として、常にまひろを想っていたということを比喩で返している。

この二人の素直に自分の相手への思いを語る場面は、なかなか感動的であろう。身体を求め、その次にすれ違い、そして少し落ち着いて相手を認め素直に自分の気持ちを吐露する。このことから道長はのちに彰子の女房としてまひろを呼ぶ。中宮定子に清少納言がいたように、紫式部(当時は藤式部であったという記録もあるのだが)が必要であったのだ。それが、道長のまひろへの思いであり、そして心であった。そしてその思いを形にしたのが源氏物語ということになるが、それはもう少し先の話として書かれるのであろう。

宇田川源流

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