「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 3 後期水戸学と藤田東湖
「宇田川源流」【GW特別 宇田川版幕末伝】 3 後期水戸学と藤田東湖
令和6年のゴールデンウィークは「宇田川版幕末伝」を書いている。実際に、「小説家」として、幕末の話は「庄内藩幕末秘話」「山田方谷伝」「暁の風 水戸藩天狗党始末記」など、いくつか上梓している。
前回は、幕末の基軸になる尊王と佐幕という考え方について、そもそもなぜ幕府の治政に、幕藩体制を維持しているはずの大名から「尊王思想」出てくるのかと言ことに関して、神話の世界の内容から順番に説明してきた。日本は、そもそも朝廷と幕府という二重権力構造になっており、その朝廷が本来の権力者であるのだが、その朝廷が内政部分を第三者に任せるということを行っている。当然に、他の国でもそのようなことは行われており、中国では例えば一番初めの漢帝国の高宗(劉邦)の時には「宰相」として、蕭何が政務をとっている。地震が公邸になるのではなく、宰相となって実験を持つのは、三国志の曹操であっても同じことでありまた元帝国の耶律楚材なども同じ内容になっている。西洋であっても、例えばプロイセンの宰相ビスマルクなどは、その代表例といってよい。そのように考えれば、皇帝や王などがいて、その政治部分を第三者というか、能力者に委ねるということは、それほどおかしなことではない。
しかし、日本の場合は、例えば鎌倉時代であれば、天皇から将軍が任命されても、その後、その将軍の下の執権が実質的な権力を持ち、幕府という一つの政治体制の中においても最もトップが形骸化し権威の存在となってしまい、そのうえで、幕府の二位が実験を持つような構造になっている。この事は、室町幕府であれば三管領四職、江戸幕府であれば、老中や大老が重要になってくる。江戸時代を歴史で習ったときに、徳川家光までは政治の主役として習うが、その後、新井白石や水野忠邦など、政治改革を行った老中の名前や、場合によっては柳沢吉保や松平定信など、側用人などまで実質的権力者として名前が出てくるがその時の将軍職などはあまり出てこない。これが江戸時代の将軍職が「形骸化・権威化」してしまった実態ということになるのである。
要するに、「実質的権力者」は他のところにあり、朝廷・幕府とい二重の権力構造が存在し、その中で様々な話が出来上がってくるということになっているのである。そのような二重権力構造になってしまっている日本の場合、末端の武士の「上司」は、「自分の所属する大名」「幕府」「天皇」と三種類あることになる。現在でもそうで、自分の所属する団体のトップとなった場合、「会社」なのか「政府」なのか、または「国家・天皇」なのか、その三種類とも「正解」なのである。
しかし、その三つの団体が戦う場合に、「忠誠」とは、どこに対して忠誠を誓うことが本来の儒学の教えになるのかということがよくわからないし、また儒学はそのようなことを予定していないので、そこまで考えていない。
そのような意味で「天皇を崇敬すべし」という「尊皇派」と、「所属している団体・政府に忠誠を誓うべし」という「佐幕派」ができる。これはいずれも「正解」なのである。では、その論理がどのように構成されていったのか。その思想に関して問題になった「藤田幽谷」「藤田東湖」と「後期水戸学」ということに少しふれておきたい。
★ 水戸学
水戸学とは、第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成されたことを中心にそこから派生した内容である。光圀を中心とした時代を前期水戸学、第9代藩主斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえる。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。
善意水戸学は、ある意味で純粋な「歴史学」と言っても過言ではないが、その思想が後期水戸学につながる。二代藩主光圀は、若いころはかなり不良であったが、、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むことによって、改心する。明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。この歴史の編纂が「前期水戸学」となる。ちなみに「大日本史」の編纂は250年かかり、明治時代に完成する。ちなみに、この歴史資料を多くの人が集めるために日本全国を旅することになるが、その内容が水戸光圀本人が回ったというようになり「水戸黄門諸国漫遊記」の原案となる。
さて、9代藩主徳川斉昭の時に、後期水戸が気が成立する。18世紀末から活躍する藤田幽谷によって基礎がおかれ,弟子の会沢正志斎や子の藤田東湖らによって確立され,彼らの著作や活動,さらには彼らを重用した9代藩主徳川斉昭の声望を通して,藩外にまで影響を与えた。
藤田幽谷は外からの脅威と内における幕藩体制の弛緩,とくに相互に因果をなす藩財政の窮乏と農村の疲弊を深刻に受け止め,経世に役だたぬ従来の儒学を批判し,儒学を実用の学に建て直すことを通して,その克服に取り組んだ。彼の発言は対外面では危機の鼓吹に,対内面では農本主義的な藩政改革に焦点をおいており,まだまとまったものではなかったが,後に展開する諸要素をほぼすべて含んでいたといってよい。次の会沢正志斎や藤田東湖の世代になると,斉昭(1829年(文政12)襲封)のもとで現実に藩政改革を推進する一方,〈尊王攘夷〉の観念を中心としてその思想を組織化し,それにいわば全国的規模の理論という性格を帯びさせる。ここでは,一系の天皇が存続し忠の道徳が妥当してきた日本の国家体制(〈国体〉)の優秀性を強調しつつ,尊王が説かれるが,天皇-将軍-大名-藩士という各級の者が直接の上位者に忠誠をささげることが不動の前提とされているため,尊王はこの階層秩序を維持しようとすることにほかならない。そうして,それは内のみならず外の危機に対する対応策でもあった。他方,そこでは西洋諸国は卑しむべき夷狄だから接近してきたら打ち払うべきだとして,攘夷が主張される。華夷思想に基づく〈夷狄〉の観念と西洋諸国とを不可分に結びつけ,その打払いを唱道したのは,水戸学が初めである。この攘夷論は軍事的防衛の施策を含みつつも,主眼は幕藩体制の階層秩序を保持するために,キリスト教や平等思想など西洋の思想文物が浸透してくるのを阻止することにあった。水戸学が西洋諸国の強大さを認識しつつも,あえて〈攘夷〉を唱えたのはこのためである。この意味で,それは尊王論と密接不可分の関係にあり,国内秩序を保つために外との接触を制限しようといういわゆる鎖国制度の〈精神〉を,幕末の新状況のもとで再強調したものということができる。
幽谷の思想を継承・発展させたのが門人の会沢正志斎と幽谷の子藤田東湖である。正志斎は文政8年(1825) 3月、「新論」を著わした。
『新論』は、同年2月、江戸幕府が外国船打払令を発布したのを好機とみて、国家の統一性の強化をめざし、このための政治改革と軍備充実の具体策を述べたものである。そのさい、民心の糾合の必要性を論じ、その方策として尊王と攘夷の重要性を説いた。 ここに、従来からの尊王論と攘夷論とが結び合わされ、尊王攘夷思想が形成された。また、日本国家の建国の原理とそれに基づく国家の体制という意味での「国体」という概念を提示したのも『新論』が最初である。
9代藩主徳川斉昭のもとで、天保期(1830-44)、藩政の改革が実施され、この改革の眼目の一つに藩校弘道館の建設があった。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、これは斉昭の署名になっているものの 実際の起草者は藤田東湖であり、東湖は斉昭の命でその解説書として『弘道館記述義』を著わした。『新論』が日本政治のあり方を論じたのに対し、これは日本の社会に生きる人々の「道」すなわち道徳の問題を主題とし、 『古事記』『日本書紀』の建国神話にはじまる歴史の展開に即して「道」を説き、そこから日本固有の道徳を明らかにしようとした。
東湖は、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、「忠愛の誠」によって結びついている国家体制を「国体」とし、「忠愛の誠」に基づき国民が職分を全うしていく道義心が「天地正大の気」であると説く。したがって、「天地正大の気」こそ建国以来の「国体」を支えてきた日本人独自の精神であり、内憂外患のこの時期にこそ「天地正大の気」を発揮して、国家の統一を強め、内外の危機を打開しなければならない、とするのが東湖の主張であった。
要するに、水戸学の思想は、天皇の伝統的権威を背景にしながら、幕府を中心とする国家体制の強化によって、日本の独立と安全を確保しようとしたのである。しかし開国以後、幕府にその国家目標を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学を最大の源泉とする尊王攘夷思想は反幕的色彩をつよめていく。 そして、吉田松陰らを通して明治政府の指導者たちに受け継がれ、天皇制国家のもとでの教育政策や、その国家秩序を支える理念としての「国体」観念などのうえにも大きな影響を及ぼしていくのである。
★ 藤田東湖と徳川斉昭
幕末の水戸藩において、藤田東湖・戸田蓬軒・武田耕雲斎の三人を挙げて徳川斉昭の腹心として「水戸三田」と言われる。藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任する。弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせ、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。
この藤田東湖に関して、西郷隆盛はこのように評している。
「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」(彼(東湖)の御宅に伺った時は、まるで清水を浴びたような、心に少しも曇りのない清らかな心になってしまい、帰り道を忘れてしまうほどでした)
「藤田という人は君徳輔翼の上にも余程力のあった人である。夫れはドウであるかというと、東湖が死んだ後は烈公の徳望も東湖の在世ほどにはないということを聞いた。東湖が在世のときには烈公の徳望は一尺あるものも二尺に見えたが、東湖が死んでからはそう行かない。これを見ると藤田の輔翼の力は豪いものである」
「藤田は聡明で磊々落々の人ではあるが、話の中に決して切っ先三寸というものを抜き放さぬ人であった。人と話をするに、右に行くやら左に行くやらその切っ先を見せぬというが彼の人の極意であった」
また勝海舟はこのように評している。
「藤田東湖は、多少は学問もあり、剣術も達者で、一廉役に立ちそうな男だったヨ。しかし、どうも軽率で困るよ。非常に騒ぎ出すでノー。西郷(隆盛)は東湖を悪く言うて居たよ。おれも大嫌いだよ。なかなか学問もあって、議論も強かったが、本当に国を思うという赤心がない」
このほかにも土佐藩主山内容堂の「容堂」という業を付けたのも藤田東湖である。
この藤田東湖の子供藤田小四郎が武田耕雲斎と共に天狗党の乱を起こす。この天狗党の乱を起こさせるきっかけになったのが、長州藩の桂小五郎である。私の小説の中では、あまり護衛の少ない一橋家の徳川慶喜の護衛として、その生家である水戸藩が兵を拠出するが、その時に京都に行き、そこで桂小五郎に蜂起することを説得される。本来は長州と共に同時に蜂起するということで多額に軍資金を預かるが、結局天狗党の乱だけとなり、最終的には国情を訴えるつもりの徳川慶喜の命令によって、藤田小四郎は死刑になるのである。
桂小五郎は、藤田東湖と会ったことがあるのか、そのことは記録はない。しかし、蟄居中に会っている可能性は十分にありうる。そして藤田東湖的な、もっと言えば、後期元額が尊王攘夷の最も大きなげんどうりょくであり、論理的な支柱となる。
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