「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 身分制と通い婚という文化の違いと男女の感覚
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 身分制と通い婚という文化の違いと男女の感覚
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、職業歴史小説作家である私が好き勝手にドラマについて話をしてみたいと思っている。もちろん今回のこの政策に関しては、何の関与もしていないので、本当に視聴者の一人として様々なことを言っているだけである。この内容が面白いと感じるかどうかは、皆さん次第である。もちろんここの話が作品自体を傷つけることなどはないと私は考えているのである。
さて今回は、なかなか複雑なお話になった。すでに結ばれたまひろ(吉高由里子さん)と藤原道長(柄本佑さん)の間には、それまでとは別な感情が生まれたことは言うまでもない。しかし、この二人の感情は当初からすれ違っていたのではないか。道長にしてみれば、花山天皇の退位という大きなことがあり、もしかしたら父兼家(段田安則さん)など一族がすべて陰謀で処罰される可能性がある、そのような賭けにでる一族に対して、道長自身はそのような権力争いから逃げ出したいというような心理が生まれていた。その「心理的な逃げ」の行き着く先がまひろの胸の中であったのであろう。そしてそのまま「一緒に逃げよう」ということになった。後先のことなどは全く考えなくなったのである。
一方まひろからすれば、直秀(毎熊克哉さん)の死、それも惨殺というような状況から、世の中を何とかしたいと思っている。しかし、自分では全く何もできない。「自分だけで幸せになってよいのか」という自問自答の解答が、まさに「一緒に逃げないで世の中を変えてほしい」ということになった。これが前回までの話であろう。
その後、花山天皇の退位の陰謀がうまくゆく。これで、道長の立場もまひろの立場もおおきくかわる。
まひろは、何とか世の中を変えなければならないと思いながらも女性である自分ではだめだし、そもそも、父為時(岸谷五朗さん)の身分も低い。そのうえその父はすべての仕事を解任されてしまった。そこで、身を捨てて摂政藤原兼家(段田康則さん)のところにゆくが、全く相手にされないということになる。
「光る君へ」妾NO 勝手はどっち?まひろ嗚咽&道長怒号“破局”ネット悲痛「紫の上」「泣きのギター」
女優の吉高由里子(35)が主演を務めるNHK大河ドラマ「光る君へ」(日曜後8・00)は17日、第11話が放送された。話題のシーンを振り返る。
<※以下、ネタバレ有>
「ふたりっ子」「セカンドバージン」「大恋愛~僕を忘れる君と」などを生んだ“ラブストーリーの名手”大石静氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ63作目。千年の時を超えるベストセラー「源氏物語」を紡いだ女流作家・紫式部の波乱の生涯を描く。大石氏は2006年「功名が辻」以来2回目の大河脚本。吉高は08年「篤姫」以来2回目の大河出演、初主演となる。
第11話は「月夜の陰謀」。藤原兼家(段田安則)によるクーデター「寛和の変」。花山天皇(本郷奏多)が退位し、藤原為時(岸谷五朗)は再び官職を失った。まひろ(吉高由里子)は左大臣家の娘・源倫子(黒木華)に父の復職の口添えを頼むが、断られる。一方、東三条殿は藤原道隆(井浦新)の嫡男・伊周(三浦翔平)らも招いて宴が催され、栄華を極めようとしていた…という展開。
道長からの誘いに、まひろは廃邸へ。再会した2人は言葉も交わさず抱き合い、熱く甘い口づけを交わした。
道長「妻になってくれ。遠くの国には行かず、都にいて政の頂を目指す。まひろの望む世を目指す。だから、側にいてくれ。2人で生きていくために、俺が考えたことだ」
まひろ「それは、私を北の方(正妻)にしてくれるってこと?妾(しょう)になれってこと?」
道長「そうだ。北の方は無理だ。されど、俺の心の中ではおまえが一番だ。まひろも心を決めてくれ」
まひろ「心の中で一番でも、いつかは北の方が…」
道長「それでもまひろが一番だ」
まひろ「耐えられないそんなの!」
道長「ならば、どうしろというのだ!どうすれば、おまえは納得するのだ。言ってみろ。遠くの国に行くのは嫌だ。偉くなって世を変えろ。北の方でなければ嫌だ。勝手なことばかり…勝手なことばかり言うな」
道長は立ち去り、一人、残されたまひろは涙を浮かべ、呆然。
道長は東三条殿に帰ると、兼家に「お願いがございます」。何かしらの決意を固めたようだ。
まひろは屋敷に戻ると、水面に映る己の顔に石を投げた。絶望の底に沈んだように、嗚咽が止まらなかった。
SNS上には「こんな別れ方は嫌」「心の安寧を保つために、すれ違わないハッピーエンドが欲しい。この切なさ、和歌にしたためればいいのかしら」「大河ドラマで泣きのギターを聴くとはね」「勝手なことばかり言うのは、道長も同じじゃん?」「仮に妾を承知しても北の方が倫子様だと分かったら、どちらも耐えられないな」「道長としては最大限の譲歩なんだけど、それを拒否られては」「分からなくはないが三郎、まひろを置いていっちゃダメ」「まひろを北の方にしたら、出世の可能性が下がるからね。結局、まひろの望みは叶えられない」「一番愛されていようと、身分が低いがゆえに北の方にはなれない哀しみ。(源氏物語の)紫の上だねぇ」などの声。まひろ、道長それぞれへの感情移入から感想がつぶやかれた。
次回は第12話「思いの果て」(3月24日)が放送される。
[ 2024年3月17日 20:45 ] スポニチアネックス
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/03/17/kiji/20240316s00041000601000c.html
このまひろの心の変化と、そして道長の心の変化が、花山天皇の退位とそれに伴う多くの人の人事異動ということでうまくあらわされている。単純に歴史を追っているのではなく、花山天皇をだまし続けた藤原兼道(玉置玲央さん)が、自分が主役になると思ったところ、兄が優先されていて悔しい思いをするところなど、様々なところで「歪み」が出てくるというようなことが見えてきている。そして、そのような歪みの中で藤原道長の心は「そんなもんか」というか「社会の流れや、身分という制度の流れに反抗することをあきらめる」というような信条が生まれてきている。天皇即位のための高御座に子供の頭が置かれていて穢されるということを、自分の袖で拭いて「これで大丈夫」としてしまうなど、「儀式」や「伝統」をあまり重く考えない、特に家柄などは全く考えないような心情が生まれる。
一方まひろは、職がなくなった父為時が、妾のところに行ってしまい、家に帰ってこない。自分が家の切り盛りをしているにもかかわらず、家のことや経済的なこと、生活の事全く顧みないで、社会から逃げてしまっている父の姿に、なんとなく絶望してしまっているのではないか。そして、そのような「絶望」の原因を、本来であれば社会的な制度の問題などであるのに、なぜか「妾」の存在がよくないということン位なる。
そのような二人の心情の変化が、ここの記事にあるように「道長からまひろに対して、妾になってほしい」という願いを「妾では嫌だ」という解答を出させてしまう。お互いが、お互いの内容をよくわかっていれば、心情を理解できていたにもかかわらず、身分の違い、そしてその身分によって見える景色の違いから、二人の心にすれ違いができてしまうということになっているのではないか。
そこまでの深読みが必要なのかどうかということは十分にあるが、私のような小説家の立場から見ると、どうしても行間を読んでしまうということになる。そして、この「歪み」こそが、紫式部としての「源氏物語の創作意欲」につながるのであろう。光源氏のモデルは藤原道長であるということが、その「苦悩」や「道長に振り回される女性の心情」というところまで、うまく表現し、1000年たった今でも、多くの日本人を感動させるのは、そのような実体験に基づいたものであるからに他ならないのではないか。
もちろん、現在と当時では、結婚の制度も習慣も全く違う。当時は結婚といえば「通い婚」であり男性が女性の家に通ってゆくという事であり、女性は嫌ならば門を明けなければよいというような状態であるし、また、女性が政治に参加することはなかったが、しかし、女性はしっかりと男性をコントロールできていた。男尊女卑というイメージとは全く違う「社会的役割分担」であったのであり、そのような文化が見えていなければ「妾として誘うなんてサイテー」というような意見になってしまう。ある意味で現在のインドのカースト制のような状況の「抜け穴」が妾であり、女性だけはその抜け穴を通れた時代である。道長は、多分兄だけど妾の子である道綱(上地雄介さん)を見てそのように思ったのではないか。
まひろは、そのあと涙を流しているが、これは「自分の思いがわかってもらえない」ということなのか、それとも愛が通じていないからなのか、または一緒に駆け落ちするということを承諾しなかった後悔なのか。いずれにせよ、様々な思いの涙が流れたのではないか。
そのような「行間を読む」のが大変な回であった。
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