「宇田川源流」【日本万歳!】 日本帝国海軍の栄光「赤城」「加賀」発見される
「宇田川源流」【日本万歳!】 日本帝国海軍の栄光「赤城」「加賀」発見される
毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。日本のすばらしさや、日本の称賛される内容をここに紹介し、その中に込められた日本のすばらしさの「核」となるところを見てゆこうという企画連載である。この内容は、間違いなく、記事に書かれた主役の内容ばかりではなく、当然に、そのような内容は日本人すべての人が持っているすばらしさがあり、そしてそこには日本人が「当たり前」「常識」と思っているような日本人の慣習や日本人の生活習慣といった、日本人の国民性がしっかりと根付いているということがあるのではないか。そのように考えた場合、「称賛されているのは日本全般である」というようなことが言えるのではないかと思う。
さて、今回は「過去の栄光」の異物が海中から見つかったという話である。先の大戦において、日本は陸軍の多くが東南アジアや中国で戦いながら、海軍はアメリカやオランダと太平洋上を駆け回って戦っていた。その戦争が、侵略戦争であるのか、それとも多くの人を苦しめてい欧米からの植民地解放戦争なのかということは、戦争に勝った人々の「強者の論理」にまかれた歴史家が様々な憶測をつけて解釈するものである。当然に戦争を行った軍の上層部と、その軍の命令に従って戦っている一人一人の国民とは全く異なる内容になってしまうのであり、当然ンい日本人は「侵略戦争」をするということで、多くの日本人が命をとして戦ったわけではない。
現在も多くの東南アジアやアフリカなどの国々が、日本が戦争をしたので植民地から解放されたということを言う。もちろん、日本人の報にその意識はないのかもしれないが、少なくとも、私の祖父をはじめ、多くの日本国民は、本当に欧米の侵略を阻み、すでに略さえてしまった植民地を開放し、八紘一宇を実現するつもりで戦っていたのではないか。少なくとも、多くの「グローバルサウス」の国々の人々はそのように考えている人が少なくないのである。
現在の「平和教育」を受けた人々に、そのような日本人の気概をもう少し得られることができるのか。そのように考えていた時に、当時の遺構が見つかったというニュースが出てきた。
沈没の空母「赤城」を初調査=ミッドウェー海域で―米当局
【ワシントン時事】米海洋大気局(NOAA)は15日、太平洋戦争のミッドウェー海戦が行われた海域で、沈没した旧日本海軍の空母「赤城」を国際研究チームが初めて調査したと発表した。
公開された動画では、深海の底に横たわる朽ちた赤城の船体や砲身が確認された。
1942年6月のミッドウェー海戦で米軍と戦った日本軍は、空母4隻などを失う大敗を喫し、戦争の転機となった。海戦では日米合計で3418人が戦死した。
今回調査されたのは赤城のほか、空母「加賀」と米空母「ヨークタウン」の3隻。いずれも海戦で沈没し、水深5000メートル以上の海底にある。赤城は2019年に民間の調査で発見されていた。
国際研究チームは9月8~12日に探査船と遠隔操作潜水艇を使って調査を実施。帝京大や東海大などの研究者も参加した。3回にわたる潜水で、約14時間かけて赤城の損傷程度などを調べた。加賀やヨークタウンの詳しい調査も珍しいとされる。
2023年9月16日 14時29分 時事通信社
https://news.livedoor.com/article/detail/25000413/
「赤城」に続き空母「加賀」の撮影も成功 ミッドウェー沖 “戦艦だった”名残も捉える
非営利団体「オーシャン・エクスプロレーション・トラスト」が運営する海洋探査チーム「ノーチラス」は2023年9月20日、北太平洋のミッドウェー沖で、海面下5200mに沈む旧日本海軍の航空母艦「加賀」を調査したと発表しました。実施日は9月10日で、同日には付近に沈む旧日本海軍の空母「赤城」と、アメリカ海軍の空母「ヨークタウン」も調査しています。
「ノーチラス」によると、「加賀」は「赤城」以上に損傷が激しかったそう。鋼板には多くの錆が見られたほか、上甲板の構造物の大部分は吹き飛んでおり、発見できなかったといいます。それもそのはず「加賀」は空襲を受けた際に大火災に見舞われ、爆発しながら沈没していったのでした。飛行甲板も大きく破壊されており、上部格納庫も損傷がひどいといいます。
また、写真では甲板下にある大型砲塔も捉えられています。旧国名に由来する艦名からも分かる通り、「加賀」は当初 戦艦として建造され、砲戦にも参加できるような兵装を備えていたのでした。
「加賀」は太平洋戦争中の1942(昭和17)年6月5日、ミッドウェー海戦においてアメリカ軍航空機の空襲を受け沈没。上述の通り、当初は戦艦として計画されましたが、海軍軍縮条約のもとで空母化改装され、飛行甲板がひな壇式の三段式空母として1927(昭和2)年3月に竣工しました。1938(昭和13)年8月には、大きな飛行甲板を1枚にした一段全通式の空母に改装され、1941(昭和16)年12月には太平洋戦争開戦の契機となった真珠湾攻撃に参加しています。
2023年9月21日 18時12分 乗りものニュース
https://news.livedoor.com/article/detail/25029750/
世界初の航空母艦はイギリスのハーミスという船で、その次が日本の鳳翔という船である。いずれも軽空母で、そもそも航空機がまだ速度が早くない時代に、甲板も小さくて済む空母を作った。そもそも航空母艦は、航空機の航続力が届かない場所で航空機を使うということを前提とした内容であり、その任務には空を生かした内容で「偵察」「空爆」「直掩」というようなことがあげられる。しかし、当時太平洋における戦争のように、航空機を集中利用して艦船を沈没させるというようなことを考える人はいなかった。
世界初の航空母艦の「実践利用」は、空母加賀で、上海出兵時に上海沖から航空機によって敵陣を空爆したという。このころ、最後の連合艦隊司令長官である小沢治三郎は、台湾の新高山を登山訓練中に、上空を飛ぶ航空機を見て「あそこまで砲弾は届かない」ということで、航空機の時代が来ると予感していた。日本の海軍院はそのように考えている人が多かったらしく、真珠湾攻撃を考えた山本五十六も、また、陸軍では「世界最終戦争論」を書いた石原莞爾も、同様に考え、航空機が戦争を変えるというように考えていた。しかし、そのように考える人はまだまだ少数派で、大艦巨砲主義による決戦兵器として大和や武蔵が作られていった。
そもそも空母加賀や赤城は、航空母艦として作られたものではない。日本は、東郷平八郎による日本海海戦によって得られた艦隊決戦構想から抜け出すことができず、そのことから「八八艦隊」つまり「戦艦を8隻・巡洋艦を8隻」の艦隊で艦隊決戦を行い、敵を蹂躙するというようなことを考えていた。しかし、これが軍縮条約によってできなくなったために、一つには、排水トン量を少なくしながら、偽装(武器)を多く搭載する軽巡洋艦夕張を設計士、もう一つは、戦艦や巡洋艦として設計したものを他の艦種に変更する。もともとは「戦艦加賀」「巡洋艦赤城」になるはずだった二つの艦船は、そのまま航空母艦になった。
もともとは、ハーミスや鳳翔のように短い滑走路でよかったために、当初は「三段甲板」で、三段の滑走路から飛行機が同時に飛び出す「三段空母」であったが、それを航空機の発展とともに一枚甲板に改装した。
その空母が中心になって、真珠湾、そしてミッドウェイと戦ったのだ。彼らは、植民地解放と大東亜共栄圏を正義と思い、同時にその正義を行っている国は負けるはずがないと考え、そのうえで、それを邪魔する「鬼畜米英」を撃ち滅ぼすために戦いに行って、そのまま海に沈んでいった。
ここまで見てわかるように、日本は「あるものを有効に使う」つまり、艦隊決戦を主導と考えていた世界の潮流から航空機を主軸に考えるということを考え出したし、また、正義を信じて戦う力はほかのどの国にも負けなかったのではないか。問題はそのような先進的なアイデアをうまく広げ、国論とできなかったことで、そのことの反省の源が、これらの空母ではないかという気がするのである。
歴史は蓋をするのではなく、歴史をしっかりと見て、「よいところと悪いところ」を学ぶという姿勢が必要である。まさに、日本は世界で最も長い歴史を持っているのであるから、その歴史を学ぶことは様々にできるのではないか。
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