「宇田川源流」【大河ドラマ 鎌倉殿の13人】 以外にも北条時政が最後に出てきた鎌倉殿と北条の「権力のあと」

「宇田川源流」【大河ドラマ 鎌倉殿の13人】 以外にも北条時政が最後に出てきた鎌倉殿と北条の「権力のあと」


 毎週水曜日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について、好き勝手書かせてもらっている。なんども書いていることだが、私は「鎌倉殿の13人」とは全く関係ないし、また、その作業の一連、端の方も関与していないので、完全な一般の視聴者でしかなく、また、私は歴史小説家ではあっても、平安時代末期や鎌倉時代に関してこの時代の小説を書いたことがないので、一般的な「歴史好きが知っている程度の歴史知識」しかない。そのような人物が、適当に何かを語るということになるので、まあ、単なるファンのブログであるというように考えていただければよいのではないかと考えている。

 さて、今回は「陳和卿」の事件について書いている。まずはこの陳和卿という人物についてみてみよう。以下は「朝日日本歴史人物事典」の解説である。

<以下抜粋>

 生年:生没年不詳

平安末・鎌倉初期に来日した南宋の工人。『玉葉』には寿永1(1182)年来日とあるが,それ以前とする説もあり不明である。同年,弟の陳仏寿と共に俊乗坊重源に招かれ,東大寺の再興事業,特に大仏の仏頭鋳造などに当たった。その後もひき続き再建に尽力したが,播磨国(兵庫県)大部荘の帰属をめぐって東大寺側と不和となり,建保4(1216)年には鎌倉に下向した。将軍源実朝に渡宋を進言し,そのための大船を造船したが,由比ケ浜における進水に失敗し,消息が途絶えた。鎌倉初期の建築,彫刻などに宋風の新しい造形や技法をもたらした巧匠と伝えられるが,半面争うことの多い驕慢な一面も持っていた。

<以上抜粋:https://kotobank.jp/word/%E9%99%B3%E5%92%8C%E5%8D%BF-98755>

 さて、この陳和卿、実は源頼朝は面会を申し込んで断られれている。つまり、それだけ「京都」つまり「後鳥羽上皇」の影が強かったということになる。「頼朝は平家と戦った時に多くの人の命を奪っており、罪業の深い人間であるので面会したくない」と回答して面会を辞退している。この時から平家を出していること自体朝廷との関係が大きかったのではないか。もちろん、この時期は後鳥羽上皇ではなく後白河上皇であったかもしれないが。いずれにせよ、この「陳和卿との面会」こそが源実朝と北条義時の対立の象徴的になってしまい、同時に、鎌倉と京都の対立として描かれている。

"鎌倉殿"坂東がナレ死に納得

 俳優の小栗旬が北条義時役で主演を務める、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(毎週日曜 後8:00 NHK総合ほか)で北条時政を演じた坂東彌十郎からコメントが到着した。

 『鎌倉殿の13人』は61作目の大河ドラマ。脚本は、2004年の『新選組!』、2016年の『真田丸』に続き3度目の大河ドラマ執筆となる三谷幸喜氏が務め、野心とは無縁だった若者が、いかにして武家の頂点に上り詰めたのかを描く。

――「おなごには苦労しない」時政の魅力

なんだろうな、まっすぐなところじゃないですかね。守ろうと思った女性は必ず守るというのは、やっぱり女性にも通じるんじゃないかな、という感じですよね。だから尽くしてくれるし、でもポンコツだから女性は甘えさせてくれない(笑)。そういう女性がきっと時政は好きなんでしょうね。

――時政の笑顔

それはもう本当に、周りの人がつくってくれた笑顔で。泰時(坂口健太郎)が会いに来てくれて僕が目覚めるときに、「…うん」って顔をじっと見て、「あれ…誰…?」と思っている間に、泰時がとてもいい笑顔をしてくれるんですよ。それでもう、昔の気持ちに戻れる部分もあるし、サツキ(磯山さやか)も言葉はきついけどやっぱり優しいし。伊豆にいたころの北条の雰囲気が、またあそこに戻れたというのはやっぱり、時政が一番幸せだったということじゃないですかね。

――北条時政を演じきって

時政はダークというイメージを皆さんも持っていらっしゃっただろうし、僕ももともと持っていましたけども、一貫して家族のため、それから国のために頑張る。「それ以外はもうどおうでもいいよ、ポンコツで」というところは最初から最後まできっと一貫していたんだなと思います。それが時政らしい、いいところだったなと思っています。

――ラストシーン

いい終わり方。皆さん壮絶な死に方をなさっている中で、最後にこのホワンと柔らかいシーンで終われるというのは、きっと時政だけなんだと思いますよ。それを最後にプレゼントしてもらったような気がするので、これも三谷幸喜さんに感謝ですね。

2022年11月06日 20時54分ORICON NEWS

https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12173-1971973/

 さて、「鎌倉の中の御家人の対立」と「鎌倉(武士)と京都(朝廷)との対立」ということの二つが混在していることになる。この二つの対立を、北条義時は何とか維持しようという音を考えていたに違いない。これが他人の目には「権力を独占したいから」というように見える。しかし、そうではない。「坂東武者の世の中をつくる」という兄、北条宗時の遺志を継いで行っているのである。

 では、義時がやっていたことは、権力の独占ではなく一体何なのであろうか。身近にいる泰時でさえそれが見えていなかったのだ。この義時は「自分が矢面に立って御家人を守る」ということであった。そのために、父時政がわいろを受けとっている姿を見て驚愕したのではないだろうか。

 さて、今まで死んだ人を見てゆこう。まずは一つ目として、鎌倉殿と対抗するだけの力を持ち、なおかつその力をもって担がれてしまう場合である。その場合は早めに誅殺する必要があるのだ。上総広常・源頼朝・阿野全成・和田義盛がそれにあたる。一方本当に鎌倉を分断してしまう勢いで反乱を企てる人がいた。比企能員や北条時政がそうであり、味方によっては畠山重忠もそうであろう。そしてもう一つが「鎌倉を裏切って京都に向かった」人々であろう。源義経・梶原景時・まだドラマでは先だが源実朝もこれに当たる。

 このように考えると、これらの人々の「退場」は、いずれも「鎌倉幕府を坂東武士のモノをにしなかったということで共通することになるのではないか。

 その意味で、この北条時政の最期が出てきたのは意外であった。

 北条時政については、北条時政ではなく、りく(牧の方)が悪い女で、その女に引きずられる形であったということになる。そのことを印象付けることで、老後を描き、「最後にこのホワンと柔らかいシーンで終われる<上記より抜粋>」ということになっていたのではないか。そのことが、非常に印象的で「鎌倉を関東武士のために考えていた」時政の心理を、そのような形で作っていたのではないか。

 一貫して家族のため、それから国のために頑張る。「それ以外はもうどおうでもいいよ、ポンコツで」というところは最初から最後まできっと一貫していたんだなと思います。<上記より抜粋>

 まさに「ポンコツ」であったから愛されるキャラクターというのが、今回坂東彌十郎さんの演じた北条時政にあり、そのようなところで差別化されていたのではないか。そのようなシーンをうまく作り出した三谷幸喜氏の台本は、そのような「死に方」でしっかりと登場人物を差別化し、そして、ほんわかした人はほんわかした終わり方をさせて視聴者を安心させる効果があるのがよいところではないか。

宇田川源流

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