「宇田川源流」【日本万歳!】 歴史があるからこそ存在する「歴史的和解」
「宇田川源流」【日本万歳!】 歴史があるからこそ存在する「歴史的和解」
毎週月曜日は「日本万歳!」をお届けしている。日本の素晴らしいところや日本が世界から称賛されているところを、そのままここでお伝えし、どんなところがすごいのか、どんなところが賞賛されているのかということを、この場で分析することを考えている。そのうえで、その賞賛されている部分や素晴らしいというところ、世界に誇れるところを身てそのうえで、私たち「普通の日本人」でも、そのような部分があるはずである。日本は、いくつかの例外を除いて、絶対的なヒーローがいるのではなく、日本人の集合体があり、その中の中心人物が、その象徴として存在する場合が少なくない。もちろん、何度かここに挙げているが、大谷翔平選手などはすごいヒーローであるが、しかし、だいたいの場合は、チームプレイになじんでいることが、そしてそのチームの力全体を引き出せることが、日本の英雄の条件になっているのではないだろうか。
そのような英雄の象徴が、戦国大名ではないか。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、日本の戦国時代を終わらせた英雄の三人であることは間違いがない。しかし、それ以外にも武田信玄、上杉謙信、北条氏康、毛利元就、伊達政宗、大友宗麟など、英雄は様々にいるし、またその内容は素晴らしい人々ではないかと思う。
「孟子」の「梁恵王下篇」言葉に「王請う、小勇を好むなかれ、それ剣を撫し、疾視して曰、彼悪んぞ敢えて我に当たらんやと、これ匹夫の勇、一人に敵する者なり、王請う、これを大にせよ」とある。まさに、上記に挙げた戦国大名というのは、その本人が強いというものではなく「王」なのであろう。まさに「匹夫の勇」に甘んじている人物ではなく、しっかりとした「大を相手にするもの」こそが、まさに大名なのではないか。
日本人の英雄というbのは、匹夫の勇を好む場所にはない。日本の国技である相撲などではその最高位である「横綱」は「強いだけではなく品位を求められる」というようになっている。まさに、「人間として素晴らしい人、人格者でなければ、道を究めたことにはならない。ただ強いだけでは園道の最高位に立つことはできない」ということがしっかりとわかっていることになるのではないだろうか。
このようなことが、日本人が、しっかりとした論理性はなくてもなんとなくわかっているからこそ、今の社会的風潮ができているのであり、なおかつ、その日本人のすばらしさが出てきているのではないか。
武田家・上杉家子孫らが歓談
信州ゆかりの戦国武将の子孫によるトークショーが29日、長野県諏訪市の法華寺で開かれ、武田家、上杉家、真田家の子孫が語り合った。諏訪地域の社寺がかつての神仏習合を振り返る「諏訪神仏プロジェクト」の一環。
武田信玄の次男の家系という高家武田家16世の武田邦信さん(74)は「甲斐の国は火山灰の地で領民を養うコメが十分に取れない。信玄公は領土拡大よりも領民の食料確保のため信濃に入った」との見方を示した。
仙台真田家13代当主の真田徹さん(74)は「信州はかなりの石高があったが、小領主がいがみ合っていた。もし大きく治める勢力があったら、日本の歴史は変わったかもしれない」と述べ、「どうも、山向こうは全部敵という意識がある」と笑わせた。
一方、旧・上杉子爵家第9代当主の上杉孝久さん(70)は、今川家との同盟の破綻を機に塩が入手できなくなった信玄に対し、上杉謙信が塩を送った逸話などを語った。
2022年11月04日 22時12分読売新聞
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12213-1968863/
「道を究める」という言葉がある。まさに、日本人は何でも道にしてしまい、その道を究めることを求める。お茶も、単純にお茶を飲むのではなく「茶道」というように、お茶の道を究めるというようにするのである。モノや人、行為それらすべてに「神が宿っている」と考えるので、その神々が満足するようにしなければ、道を究めたことにならない。一つの事だけが強くても、他の神々が満足するはずがない、というような考え方に至っている。
さて、孔子の書いた論語などは、「王の道」を説いたものであり、日本では、この論語を江戸時代などは多くの下級武士が学んでいた。このことから、下級武士であった西郷隆盛や木戸孝允が明治天皇を補佐し、明治維新を成し遂げたということになるのである。ある意味で、すべての人々、下級武士に至るまでの武士階級がすべて、王の道を学んでいるという不思議な状態であり、なおかつのその王の道を学びながら、お互いがいがみ合うことなく、対立することなく、王を支える人物になる。ある意味で、王を補佐し、王の立場で自分の位置にあって仕事を全うするということをしているという国はないのではないか。
しかし、そのような雰囲気は、「忠義の士」を作ることにはなるが、同時に「王そのものが王の道の学問において、臣下の人よりも致死句が少ない」というような状況が生まれ、王そのものの形骸化が始まってしまうのである。江戸時代の大名や将軍が、その大名や将軍として名君になっている例は少なく、幕府で言えば老中などが改革の主体になり歴史に名を残しているのは、なかなか特徴的なのではないか。
それに比べて、戦国時代は違った。戦国時代は大名そのものに力がなければ臣下のモノは大名を裏切り、時分が下剋上をするのか、あるいは他の大名のところに行くことになる。そのようなことがなかったのが、武田信玄と上杉謙信であり、本来は、最も「道」、つまり「戦国大名道」をまい進した二人であるが、残念ながら日本には「戦国大名道」というものはないらしく、「英雄」という言葉で片付けられてしまっているのである。
さて、この二人が素晴らしい大名であったことは間違いがないが、なぜこの二人は天下を取れなかったのか。それは、この二人が隣接していて、なおかつこの二人が、争っていたからである。世に言う「川中島の合戦」は二人の生涯の中で5回も戦われており、その内容がかなり大きな損失になっている。その間に織田信長などほかの勢力が大きくなって天下を逃したといって過言ではない。
このような歴史があるからこそ、「和解」があり得るのである。もちろん、他の国に歴史がないとは言わないし、また、大きな対立が残っていないというわけではない。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の対立などは、日本の戦国大名から始まる地域の対立などとは全く異なるレベルでありまた、歴史も深い。しかし、同じ国、同じ民族、同じ地域で、そのように対立し、普段は一緒にやりながら、いまだに対立として認識されているのはある意味で日本の特殊性ではないか。そして、上記の記事のようにお互いが認めてお互いが歴史の話をするというのも少ない。
特に、そもそも400年以上前の血筋が、今でも残っていて、その内容をたどり、現在もこのように集まるというのも、なかなか興味深いところであり、最も日本らしい。それは、今でもこの人々を「殿」として敬う風習があるからにほかならず、それだけ「主従関係がしっかりしていた」人々なのではないだろうか。
このように「日本人には必ず歴史があり、そして、その歴史が次の歴史を生み出す」ということがあり、それが、その人の個性を彩りまた地域性などを作り出してゆく土台になるのである。これが日本の社会の原型なのかもしれない。
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