「宇田川源流」 何故ブラック校則ができるのか?という疑問に対しての宇田川的考え方

「宇田川源流」 何故ブラック校則ができるのか?という疑問に対しての宇田川的考え方


 私の出身高校は、基本的に「校則」というものはなかった。校則がないからと言って、おかしくなることはないというのが私の持論だ。逆に高校で校則があって、大学で校則が無くなり、なぜ大学は秩序が守られているのだろうか。今でこそ、18歳から「成人」ということになっているが、私の時代などは20歳からとなっていたので、高校3年生も大学1年生も全く変わらない状態である。しかし、なぜか高校生と大学生では全く違うということが大きな問題になっていたのではないか。

先に答えを言っておく。もちろん「答え」と言っても、私の考えなのであるが。

一つ目は「らしさ」を求める大人の都合

二つ目は個性を伸ばすことのできない大人の指導力の欠如

三つめは高校生への子ども扱い(無責任状態)

の三つである。

一つずつ見てみよう。

そもその「高校生らしい」とはいったい何であろうか。単純に、「らしい」などと言うが、もしも「らしくない」状態であっても、それは高校生であることは間違いがない事実なのである。単純に、タバコを吸っていようが、酒を飲んでいようが、私服を着ていようが、髪の毛を七色に染めていようが(かなり奇抜ではあるが)、志茂田景樹のような格好をしていようが(もう古いかな)、それは、高校生なのであって「らしい」とかは関係がない。

では「らしさ」とは何か。単純に「大人の価値観の押し付け」でしかないのである。要するに「大人の価値観の押し付け」をすることが良いことなのであろうか。例えば、下記にある「髪は黒くなければならない」は、大人の価値観の押し付けでしかなく、またパーマをかけてはいけないというのも同じであろう。パーマをかけているから、または髪の色を添えているからと言って、勉学の邪魔になるであろうか。また、そこまでしてやった勉強は、社会に出て役に立つのであろうか。そのことは全く関係がないのである。

「登下校中に水を飲むな」「髪の毛は黒色」……理不尽な校則が生まれる理由

 子どもが生まれて初めて直面する「意味不明なルール」は、もしかしたら、学校の校則かもしれない。学習塾経営・プロ家庭教師の妻鹿潤さんによると、謎な学校校則に困惑した生徒・親から相談を受けることは少なくないそうだ。そこで今回は妻鹿さんに、理不尽な「校則」の実態や、そうした「ブラック校則」が生まれる理由について解説してもらった。

   ダメな校則の中には、「危険」があるものも

 学習塾経営、プロ家庭教師として活動している私は、理不尽な校則についての相談をよく受けます。たとえば、地毛が黒でない生徒への「黒染め」の強制、ツーブロック禁止、白色以外の下着の禁止など、理不尽な校則を挙げていくとキリがありません。

 いままで聞いた校則の中でも、最も理不尽なのは、次に挙げるようなルールです。

- 登下校中に水分補給してはいけない- 真夏の体育館であっても、手や服、扇子などで扇いではいけない- 雨や雪で濡れた髪の毛を拭いてはいけない

 子どもたちは何でもない愚痴のように話しますが、猛暑の登下校中に水分補給を疎かにしたり、真夏の体育館で体温調整を禁止したりしたら、脱水症状や熱中症のリスクが高まります。濡れた髪の毛も放置すれば風邪の原因になるでしょう。

 逆に、そうしたリスクを踏まえたうえでも、あえて禁止しなければならない理由は思いつきません。こういった命や健康に関わる校則は、早急に見直す必要があります。学校や教育委員会に迅速な対応を求めるべきでしょう。

   大人の都合で作られていった「ブラック校則」

 こうした理不尽な校則の多くは、昭和の名残でしょう。当時の学校は校内暴力が吹き荒れるなど、いまと比べてかなり荒れていました。時代的にも「力尽くで子どもをコントロールする指導が当然」と考える教師・親が少なくない状況でした。

 さらに高度経済成長期の「大量生産」の時代には、決まった製品を大量に、効率良く作り出すための組織・人材が求められていました。そうした時代には、個性や創造力よりも「規律」や「調和」が重視され、学校でも手っ取り早く子どもたちに言うことを聞かせるための校則が作られていました。

 これは、現場の教師にとっても都合がよかった。いちいち物事の善し悪しを生徒に考えさせるよりは、「校則で決まっているから」と指導するほうがはるかに「楽」だからです。そうして、生活の細かいところまでが校則で定められていくようになりました。

 校則とは違いますが、プロ家庭教師としてよく遭遇するエピソードに、「学校で習っていない方法で問題を解いたら怒られた」「学校で習っていない漢字を使ったら×を付けられた」というものがあります。これも、学校で習うことが全てであり、そこからはみ出したものは一切許さないという、昭和の価値観の名残と言えます。

 しかし、今はもう令和です。高度経済成長期が終わり、30年来の経済停滞が続く現代日本で求められているのは、言われたことに黙って従う従順な人ではなく、自分で考え創造していくことができる人です。

 社会に出てから「校則」はありません。決められたことを鵜呑みにするのではなく、「なぜ必要なのか?」を考えられる人になれるよう、学校での生徒指導の在り方を見直す必要があるでしょう。

 結局、社会の空気を変えていくためには、昔の価値観で育てられた大人たち自身も「物事を鵜呑みにせず、自ら考える姿勢」を、自ら実践して、子どもたちに見せていく必要があるのかもしれません。

2022年10月1日 6時0分 キャリコネニュース

https://news.livedoor.com/article/detail/22948000/

 指導力の欠如ということもまさに同じで、「校則を守っていれば、不良にならないのか」ということを考えてみよう。逆に、犯罪者の中で「学生時代は真面目であった」という人は少なくない。逆に、高校時代に不良であったからと言って、大人になって立派な社長になっているような人も少なくないのである。

ジェンダーハラスメントなどの場合は、女性に対して「女性らしさ」男性に対して「男性らしさ」を求めることがハラスメントとになるといわれているにもかかわらず、高校生に対して「高校生らしさ」「学生らしさ」を求めていること自体が字ぢ亜遅れのナンセンスにすぎないのである。はっきり言って「頭が悪い」徒しか言いようがない。

逆に、個性というのは、「皆と同じことをやらない」ことでつちかわれる。そしてその行動の責任と行動に考えがあるから、その内容が見えてくる。単純に他人の意見を聞いてばかりで、何もせず「指示待ち族」のようになってしまい、何か責任をもって主軸で動かなければならない時にも責任を回避し、何もできないような人ばかりを作っても意味がないのである。

「校則を守っていれば不良にならない」ということは、単純に「個性的な高校生を育て、自己責任を教えることのできない無能な教員の行うこと」でしかなく、個性が抹消されてしまう教育を行い、逆に社会の主軸になることができない人を作り出しているということにしかならないのではないか。

まさに、そのことが「無責任」を作ることになる。そしてそのことがエスカレートすると、ブラック拘束になるのである。今の日本の最も大きな病巣は「責任を回避する事」であり、そのことから、訳の分からないブラック拘束ができるということになる。責任の会費と地うのは「一つの事件が発生し、そのことを根本的に改めることができないことから、全体を制限する」ということになる。このことは「オレオレ詐欺」があると「ATMの取引上限が全員制限される」ということになるのと同じで、パーマをかけた学生が不良グループになると、全体がそのパーマを禁止するということになるのである。この状態と同じということになる。そのうえ、そのような内容に関して保護者がクレームをつけることに対して、そこに何も言えないということになるのではないか。はっきりと保護者に自信をもって個性教育を言うことができないということが最悪なのである。

要するにブラック拘束がある学校は、その高校が「優秀でしっかりと責任感を教えることのできる教員がいない」ということを意味しているということになる。

もっと単純に言えば、「ブラック拘束があるところは、教員の質が悪い」ということにほかならず、そのようなことをしっかりと見るべきではないかと考えられるのである、

宇田川源流

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