日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄 第二章 日の陰り 3
日曜小説 No Exist Man 闇の啓蟄
第二章 日の陰り 3
菊池綾子は、十代の頃から荒れた毎日を過ごしていた。高校に進学してすぐに両親が離婚し、母について、家を出ることになった。しかし、すぐに母は男を作って家に帰らなくなり、アパートに一人でいることが多くなった。人恋しい思春期の綾子にとって、その時間は地獄のような者であったに違いない。徐々に悪い仲間と付き合うようになり、アパートそのものが悪い仲間のたまり場になっていった。そのまま悪い仲間の愛人のような生活を送るようになり、妊娠中絶を繰り返すような毎日になっていったのである。
たまに、母が帰ってきたが、その荒れた「自宅」の様子を見て、徐々に寄り付かなくなってしまった。ある日、母が新たな男と一緒に来て、少しまとまった金を置いていった。綾子は、その時に母の顔を見て「これが最後になるな」と思った。
「ごめんね綾子。でもね、あなたが邪魔なのよ。これで幸せになってね」
なんと身勝手な話であろうか。小さな子供ならば、ママといって近付いたに違いない。しかし、なぜか涙は出なかった。別に母などはいなくてもよいと思っていたのかもしれない。そう言えばあの時、父についていったらどうなっていたのかな?そんなことも考えた。しかし、いまさらそんなことを思っても何の意味もなかった。
「そう」
驚くほど素っ気ない言葉が出た。まだ高校生なのに、煙草に火をつけた。母は、まったくそのことを咎めようとはしない。母にしてみれば綾子がこのようになってしまったのは、自分の責任であるというような感覚があったのかもしれない。
「高校は」
「あんたが心配することじゃないから」
母は、その言葉を最後に、背中を見せて出ていった。綾子は、封筒に入った札束を、他の人が出入りしても見えない、台所の奥にしまった。この時以来、母とは会っていない。今どのようになっているのか全く分からなかった。
その母からもらった金は、何か問題があった時として、基本的にはバイトで生計を立てていた。とはいえ高校は通いたいと思っていたので、バイトはどうしても夜になっていった。学費を払い、そして十分な生活費を得るためには、この時からどうしても夜の世界に身を投じるしかなかったのである。る。できることは何でもしていた。
そのうえ、生活のために体も売っていた。夜の世界とは言え、高校生を働かせるわけにはいかない。ガールズバーやキャバクラの店員をやっても、12時には店を追い出された。それでも家に帰るつもりはなく、そのまま、夜の街に立って男と共にホテルに行く生活になっていた
「おい、綾子、俺の女にならないか」
ある日、何回か自分の事を買ってくれた男が、そう言った。
「なんで」
「高校の学費は払ってやるし、他の生活費も払ってやる。金は先に払ってやるよ。どうだ」
「でも、どうせ愛人かなんかでしょ」
「ああ、そうだ。嫁も子供もいるからな。その代わり金は弾むし、困ったことは全部引き受けてやる」
愛人となった方が楽なのであろう。特にその時は好きな男もいなかった。まあ、ソンナニ自分の体が気に入ったのであれば、そして、金で買われるのであれば、それもよいと思った。
「それじゃあさあ、おじさん。家替わりたい」
男は、少し笑って、都会のマンションの最上階の部屋をあてがってくれた。それまでアパートに出入りしていた暴走族の男たちも近寄らなくなってきたのである。
「綾子さん、知ってる。綾子さんお付き合っている男は、銀龍組の組長太田寅正さんですよ」
それまで親しくしていた、暴走族のリーダーのマサという、高校の同級生が、そっと教えてくれた。
「だから」
「いや、大丈夫かなと思って」
「大丈夫よ。その寅正さんだって、人間だもん。それにこんなに金掛けてれば、あたしの事殺しはしないでしょう」
綾子の肝の据わった言い方に、マサも改めて綾子の顔を見た。綾子のどこにこんな度胸があるのだろうか、というような目で見ていたのを綾子は覚えていた。
今から考えれば、マサは自分の事を好きだったのかもしれない。そう言えば、他の男に抱かれているときも、マサだけは自分のボロアパートの外にいて、ずっと綾子の事を待っていた。寅正の愛人になる前、キャバクラに努め、その後売春で生計を立てているときも、マサは常にホテルの外などで、自分を待っていてくれた。何度か、マサのバイクの後ろに乗って、家に帰ったような記憶がある。なんとなくマサは嬉しそうだった。
今も、その太田寅正が経営する銀座のクラブを任されている。そもそも東御堂信仁を紹介してくれたのも、太田寅正であった。
「今まで悪いことばかりしてきたから、死ぬときくらいはいいことをして死なないと、日本に申し訳ない。でも、自分にはもうそんな力はないから、綾子、お前が俺の代わりに日本国に恩返ししてくれ。」
太田寅正は、そう言って、綾子を銀座のクラブ「流れ星」に在籍させたまま、東御堂の仕事をさせていた。東御堂の命令があれば、その仕事を手伝うように言われていた。
「寅正さん。今回、大沢三郎を調べろということなんだけど」
「そうか」
クラブ流れ星の一番奥のボックス、それもちょうど柱の陰になってあまり見えない場所に、寅正と綾子は座っていた。
「今回は天皇陛下の命を狙っているということなのよ」
寅正は、一瞬信じられないというような目で綾子の方を見たが、そのままテーブルの上の水割りのグラスを取って、もう一度深くソファーに身を沈めた。
「陛下の命か」
「そうなの。この前の爆発も、皇居を狙っているということなのよ」
寅正の目が光った。
「大沢三郎ならばやりかねないかもしれないな。でも大沢みたいな肝っ玉の小さい奴が一人でそんな大それたことをするはずがない。ましてや、あいつの近くに城の前で爆弾を爆発させられるような奴もいないだろう。もう少し詳しく話を聞かせろ」
「はい、それが・・・・・・。」
綾子は寅正に今までの話をした。松原の話、そして多分その後ろに中国人の陳文敏がいるという話までした。寅正は信用できるし、また、何かがあっても問題はない。東御堂信仁は、寅正のことがあるので、なかなか菊池綾子を使わないのであるが、綾子しかできない仕事になれば、やはりしかたがなく、綾子を使った。その時には当然に太田寅正、そして銀龍組が後ろについているということが安心の材料でもあった。
「中国が日本を侵略するっていうのか。それは許せんな」
「でしょ。今回は寅正さんが辞めろといっても、やらなきゃいけないと思うの」
「そんなことを言うわけないだろう。」
「どうしたらよいと思う」
寅正は、腕を組んで少し考えると、綾子に言った。
「いいか、大沢は肝っ玉が小さいから、攻めればすぐに逃げる。そのうえ、あいつ自身はいい所しかしないはずだ。大沢が陳や松原とつながるにしても、金も何もないから、自分が主導権をとるために何かを出しているはずだ。」
「何かって」
綾子は、言った。
「女だ」
「女」
「ああ、青山優子って愛人の政治家がいるだろ」
「ああ、何だか大沢の愛人のクセに、何だか偉そうな女ね」
「あいつを落とせ」
寅正は、そう言うと、またゆっくり体を起こして水割りを飲んだ。
「青山優子」
「そうだ。あの女を松原や陳と共有することによって大沢は連絡を取りながら、何か自分が捨てられないネタを仕込んでいるはずだ。しかし、そんな使われかたをすれば、女も怒る。そこをうまく使え。そうやって、相手の全貌を見てから、行く場所に行けばうまくゆくだろう」
「さすが寅正さん」
綾子は、そう言うと、グラスの水滴を噴いた。
「どうだ、久しぶりに青山優子とかいう女が、どんなことをされたか教えてやるよ」
「はい」
太田寅正は、そう言うと、クラブの他の客の目に触れないように、綾子と二人で奥の出口から店を後にした。
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