「宇田川源流 日本万歳!」 もともとの意味とは異なる意味で平和的になって現代に伝わる「本当に大事な事」
「宇田川源流 日本万歳!」 もともとの意味とは異なる意味で平和的になって現代に伝わる「本当に大事な事」
毎週月曜日は「日本万歳!」をお伝えしている。日本人というと、外国からの評価は非常に高いのに、なぜか日本の国内に入ると「日本はだめだ」「日本は良くない」というような意見ばかりである。もちろん「まだまだ足りない」「もっと頑張れ」というような意味を込めてのものであると思われるが、それでも毎日のように複数のマスコミが多方面からそのような報道をすれば、外国は図に乗り、日本人はそれを真に受けてそのまま自信を喪失してしまう。そのような状況で良いのであろうかと考えることは少なくない。
実際に外国に行けば、「日本を悪く言うことでしかアイデンティティを保てない国の人々」以外は、日本の国のすばらしさを感じているのである。実際に外国に行って、日本人であるというだけで興味を持ってくれたり助けてくれたりという人は少なくない。日本はそれだけ世界に好かれているのである。
ではそれは何故なのか。一人のヒーローがいる場合、そのヒーローとその関係者が優遇されることはよくわかる。しかし、「日本人」という事だけで、日本人の誰か、またはその他の個人情報なしに、多くの人が「日本人」というだけで、助けてくれ歓迎されるのである。まさに「日本人」ということが好かれているのであり、そのことを疑う余地はない。
では日本人はなぜ「個人」ではなく、「日本人」という集団で好かれているのであろうか。そのことを、日本人の歴史や日本人の習慣、日本人の内容を考えてみてみるということをすべきではないか。日本人が最も日本人を知らないというこの現実から、日本人は「なぜ世界が日本の事を好きなのか」という簡単なことがわからなくなってしまっている。そこで、この連載では日本の歴史や習慣、何気ない毎日の中にある日本のすばらしさを新ためて見ながら、日本のすばらしさを改めて認識しようとすることである。
さて、本日の話は「日本の習慣」のなかから「ゆびきりげんまん」についての話である。
「指きりげんまん」に込められた本来の“恐ろしい意味”
あなたの朝がいつもイイ朝でありますように?ニッポン放送『羽田美智子のいってらっしゃい』。9月16日放送分のテーマは「指きりげんまん」です。
ニッポン放送「羽田美智子のいってらっしゃい」
約束を必ず守るしるしとして、お互いの小指と小指を絡ませ、「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます……」と誓い合う風習があります。
「指きりげんまん」の風習は、江戸時代の吉原が発祥とされています。吉原には遊郭があり、そこでは遊女と呼ばれるたくさんの女性たちが、男性のお客さんの相手をしていました。
そんな遊女の皆さんも、ひとりの女性です。好意を持ったお客さんに対して、「あなただけは特別です。この想いはずっと変わりません」という真の愛情を示す証として、自分の小指を捧げたそうです。やがて「指切り」が一般にも広まって、「約束を必ず守ります」という意味へと変化しました。
気になるのが「げんまん」の意味ですが、漢字で「拳万」と書きます。「握りこぶし(げんこつ)で1万回殴る」という意味で、つまり「約束を破ったら1万回殴りますよ」という、制裁の思いが込められているそうです。
要するに「指きりげんまん」とは、「約束を破ったら指切りに加えて、1万回殴ってもいいですよ」という、強い意思表示の意味があるのです。我々はそんな深い意味も知らずに、小さな約束にも「指きりげんまん……」と無邪気に歌って約束していたのですね。
2021年09月23日 11時25分 ニッポン放送 NEWS ONLINE
https://news.nifty.com/article/item/neta/12245-1256183/
さてゆびきり(指切、指切り)は、近世以降の日本において、約束の厳守を誓うために行われる、大衆の風習である。まさに庶民の風習であるということができウ。ここにある「ゆびきりげんまん」とは指切拳万の略語である。「拳万」は「握り拳で1万回殴る」の意味であり、実質的には「ころす」もしくは「半殺しにする」ということに繋がるのではないか。中東で「むち打ち100回」で十分に生死を分ける刑罰になっていることから考えれば、一万回殴るというのは、まさに「殴り殺す」に近い。この歌の中にある「針千本飲ます」であっても「裁縫針を千本飲ませる」ということであり、まあ、基本的には「命がけ」ということであることはよくわかる。
さて、本文にもあるように「指切」は、遊女が客に対する心中立てとして、小指の第一関節から指を切って渡したことに由来している。これにはかなりの激痛が伴うため、それほど愛してるということを意味し、貰う客も、遊女の思いに応えるくらいの気構えが必要であった。また指を切っていれば、すでに、他の男性がもらい受ける予約があるというように考えられ、舗あの男性が手を出さなくなるということになる。ただし、実際に切る遊女は少なく、贋物(模造品)の指が出回ったらしい。
日本の社会において、指を切ることによって責任をとらせるといった行為自体は、中世初期における武家が最初であり、『吾妻鏡』の12世紀末の記述として、戦時中、御方討(味方討ち・同士討ち)をしてしまった者は、「指切の刑」に処されたことが記述されている。ちなみに小指であったとしても、そのことで握力はかなり低下するのであり、刀などを握りにくくなる。同志討ちをするということになれば、当然に見方を殺したということになるのであるから、本来は反乱などと同じであり、そのために、命を失うのと同じようなものであり、その武器を握らせないようにするということになる。そのことが「命までは取らないまでも、今まで通り武器を持てないように戒める」ということになり、それでも戦えなくなってしまえば戦力の低下になるので、指だけを斬るという風習があったのである。
室町幕府が永正9年(1512年)8月に定めた『撰銭令』の条例には、違反した者は、「男は頸(くび)をきり、女は指をきらるべし」との肉体刑を記しており、女性の指切りを刑としている。女性は命を取らないということにしてあり、そのことで、現在で言えば「男女逆差別」であるが、まあ、その辺は良いにして、基本的には「外形的にも罪を犯したことがわかり、また実質的にも労働力を失わないように死罪に近い内容で行う」ということをしていたのであろう。
この「指を切る」という風習が、一つには「命がけの覚悟を示す」というような形で「遊郭」に伝わったものが「指切拳万」であり、一方が「懲罰としての指切り」で残っている。そして懲罰の方は「切る」というのではなく、「指を詰める」という言い方になり、江戸時代から任侠組織にその厳冬を残し現代に至っているのである。
さて、この「指切り」が「懲罰=指を詰める」というような言葉に変わったことから、覚悟を示すということになり、上記のように「模型を渡す」などの事も出てくることから「精神的な内容」を重視する。つまり「約束を命がけで守る」ということになり、それが徐々に「命がけ」が「覚悟」を示す程度の表現になって、そのまま現在に伝わる。現在、さすがに子供が指切りをして、その約束が守れなかった場合といえども、げんこつで一万回殴ることも針を千本飲ませることもない。もちろん指を切ることもない。しかし、「約束は守らなければならない」ということが、子供の頃から儀式としてこのように残されているということになるのである。
このような風習が残っていることから、「子供の頃から約束を守り規律を正しくする」ということになり、現在の日本の大人の「規律正しさ」や「約束を守る姿勢」が出てくるのではないか。そのことが日本人のすばらしさをそのまま見ることができる内容になっているのである。
逆に言えば「約束を守れない人」は、軽蔑される。昔であれば殺されていたのに、それが生きて許される「昔に比べれば甘い世の中になった」ということかもしれない。江戸時代幕末の日本人が欧米といわれた海外の人々が、日本人を尊敬していたことがこのようなことからもわかるのではないか。
日本のすばらしさというのはこのような事でもわかるのかもしれない。
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