「宇田川源流」【お盆休みの歴史談義】4 庶民と為政者の生活の関連性と歴史上の人物

「宇田川源流」【お盆休みの歴史談義】4 庶民と為政者の生活の関連性と歴史上の人物


 今回は「お盆休みの歴史談義」として、歴史と人物の関係性ということを書いています。

その中で「人物」といっても必ず「政治」の話ばかりになってしまい「歴史」や「エビデンス主義」「史実」というような話というのは、どうしても政治の話になってしまうということを書いてきました。

政治が変わっても、為政者が変わったということ、もちろんそれが単なる世襲による代替わりではなく、例えば豊臣から徳川に変わった関ケ原の合戦の後と前とか、そういうような大きな違いがあったとしても、実は、庶民にとっては全く変わらないということが現実にあるのです

 実際に「史実」というか、文献記録によると、関ケ原の合戦をしていた時、その土地や近隣の住民はどうしていたのかということが気になります。関ケ原の合戦は9月、つまり旧暦の9月ですから残暑が厳しい中これから稲刈りというような時期です。気の早いところはすでに稲を刈っているというような感じでしょう。特に、当時の人々は軍隊がくるといえば、当然に「戦争になる」ということをよく知っていますから、その動きがあるところで、すでに早めに稲を刈ってしまうというようなことがありました。まあ、商人などから「そろそろ徳川家康と石田三成(当時の噂ですから、豊臣秀頼とか毛利輝元とか、何かほかの大名になっている可能性もありますが)とが、この辺で合戦をするぞ」というような情報が入ってきていてもおかしくはないということになります。その時は早めに稲刈りをしてしまって、そのうえ避難するということになります。

 しかし避難をするなどといっても、ではどこに行ったのでしょうか。実は、文献によれば、「安全な場所でお弁当を食べながら合戦を見ていた」というような記述、さながら現代で言うところの「運動会の観戦」みたいな感じで見ていたのではないかというような感じです。

まあ、「リアル騎馬戦」という感じでしょうか。戦争といえば、近代戦のイメージがあり爆弾が爆発したりミサイルが飛んできたりということで「巻き込まれてしまう」というような感じがあるようですが、しかし、実際のところそのようなことはないのです。当時の鉄砲は有効射程距離が100メートルくらいだし、爆弾のようなものはないので、巻き込まれることはないし、槍や刀で農民を殺すことはないのです。このように考えれば、少し小高い、丘の上か何かで見ている分には安心して「関ケ原の観戦(ちょっとかけてみました)」ができるのです。

 さて、このように「我々の常識とは異なるところ」に当時の庶民の生活があり、その生活している庶民とつながっている「為政者」など歴史上の「偉人」がいるのです。そのように考えないと「歴史上の人物」ということを観ることはできないのです。しかし、日本人、とくに現代の「歴史家」という人は「現代の生活から、現代人の常識を当時の人々に当てはめて、そのうえで話をしている」部分があり、その内容を指摘されても全く意に介さないような人が少なくありません。これでは、問題が少なくないのです。

 さて、あえて「歴史」といいながら「庶民の生活」の話をしているのは、歴史を地域と結びつけるときに「偉人」の歴史とは別に「庶民の歴史」も必要であるということになるのです。いや、庶民の歴史を意識しないと偉人を語ることはできないということになります。何しろ「庶民の歴史」を知り「実態」を知って、そのうえで、「その庶民を統治する」ということをしなければならないのに、現代人を統治するような方法で行うわけはないのです。

 さて、何度も最近は「山田方谷」について書いているが、この項目では山田方谷を題材にした地域おこしについては全く書きたくないのであるが「庶民」と「政治」という意味では、やはり庶民出身の政治家である山田方谷がもっとも適任ではないかと思うのです。

 さて、山田方谷を語っていると、なかなか面白いことに気づくのです。それは、山田方谷の時代に「安政虎狼痢」という疫病が大流行します。基本的に、「虎狼痢」とは「コレラ」のことで、現代で言えば、当然に「感染症」の一部であり、罹患者の隔離や、公衆衛生ということが問題になる。

当時は、開国したので、様々な港から外国人が上がってくることになり、またその外国人が日本の中を無制限とはいわないまでも、出島だけというようなレベルではなく、闊歩することになる。つまり、外国人が日本人と接するという場面が増え、その中には、大使などの上級者だけではなく、水夫なども入ってくることになる。その中に多分これらの感染者がいたのであろう。

 そのような状態で流行するのであるが、なぜか山田方谷の治めていた(といっても大名ではないのである)備中(現在の岡山県の一部)は、あまり流行していないということになる。

これは何なのかということになるが、なかなか記録は残っていない。当時、庶民の間では、「流行り病は疫病神の荒ぶる行動が問題」というような考え方が主流であり、ウイルスとか、病原菌というような考え方はあまり持っていない。当然に、山田方谷は安政虎狼痢に関して長崎や江戸から文書を取り寄せて公衆衛生に気づくようであるが、それと同時に、そのようなことでは庶民が納得しないということを知っているので、神社のお札を使って安心させるなど、様々な「心理的」言い方を変えれば「神秘的」な手段を行うことになるのである。

 このようにすることによって「政治によって疫病がおさまった」のではなく、「神様のおかげで虎狼痢が退治された」ということになる。これでは政治の記録には存在しないことになる。政治を「歴史の文献資料」で見ている人にはわからないが、当時の神社の書付などを丹念に見ていれば、わかるという話である。

このように「本当に庶民のことを知っている人は、自分の功績を残すことではなく、自分の領国を治めること」を行うのであり、そのために、自分が何をしたか、ではなく「民が何を求めているか」ということを考えていたのではないか。

 そのように考えれば、文献だけでは話にならないのである。

 そのような意味では、「山田方谷」のように「庶民の立場を知っている政治家」ほど、その記録が残っていないということに気づく。実際に、当時の将軍であった徳川慶喜などは、庶民の生活習慣そのものが、すべて新鮮で新しいということになる。そのために、その一つ一つを記録に残すことになるが、山田方谷のように庶民出身の場合は、庶民の生活は「懐かしい」ということはあっても、「新鮮な驚き」は存在しない。そのことから、当然に、そのことを記録するということはほとんどないのである。まあ、本人も庶民であったことをコンプレックスに感じていたり、または、その庶民がわかるということをいうことがはばかられる場合もあるので、なかなかいうことができなかったり、または記録に残すことができないということも少なくないのではないか。

 同じく庶民出身の豊臣秀吉が、朝鮮出兵の時に、厭戦気分が当時前線基地であった名護屋城(長崎県)で仮想大会を行った。その時に、「瓜売り」に扮した豊臣秀吉は非常に見事であったというような記録が存在する。まさに「昔取った杵柄」ではないが、やはり豊臣秀吉にしてみれば、太閤殿下といわれるようになっても、昔身についた技はなかなか抜けなかったのではないか。

 このように「記録に残っているもの」だけではなく、庶民の中の記憶に残っている内容をしっかりと見なければうまくゆかないということになるのである。本当の歴史が見えなくなってしまい、現代の人の感覚でゆがめられた歴史を見てしまうことになるのではないだろうか。

 では、その歴史上の人物と庶民の感覚を合わせて、どのようにさまざまなことを解釈すればよいのであろうか。

 「偉人」「政治家」は、一人の個人なので、様々な意味で、違う土地のことを知って、その土地の話をすることができ、また真似する場合があるが、庶民の人は、土地から離れることはあまりない。つまり「庶民の生活の方が地域の経済や環境に根差した生活を送っている」ということになる。政治家は領地替え(転封)や戦争などの結果で、たまに変わることがあるから、そのような内容になってくるのである。そのために、「新領主」と「庶民」のあいだで、一揆まではいかなくても様々な摩擦が起きることがあるのだ。そのような摩擦の記録などが、なかなか興味深いのである。

 そのようにして「文章にない実態」を考え、そして「庶民の生活を通して、当時どのようなことを考え、環境に対して何をしていたのか」と言うことを考える。当然に、その時は「地産地消」になるのであるから、その「地産地消」が名産品になるということになるのである。

 さて、ではその辺をまた深く見てみることにしよう

宇田川源流

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