「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 合戦の場面を書かずに表現する中で「男」を感じさせる演技力
「宇田川源流」【大河ドラマ 青天を衝け】 合戦の場面を書かずに表現する中で「男」を感じさせる演技力
今週は【お盆休みの歴史談義】のはずであったが、まあ、三週間もなかったので、やはり大河ドラマについて書いてみようと思う。明日から土曜日まで(今週は「土曜日のエロ」はお休み)もしかしたら、本日ちょっとはみ出してしまったので、日曜日まで、そして、パラリンピックの休暇中ももしかしたら【お盆休みの歴史談義】になるかもしれないが、その分、大河ドラマをやっているときはこちらを書いてみようと思う。
さて、約1カ月ぶりの「青天を衝け」である。
舞台は「大政奉還」から、「鳥羽伏見の戦い」そして「江戸無血開城」その後の上野彰義隊の戦い(いわゆる上野戦争)そして、会津戦争くらいまで進んでいる。記録によれば渋沢栄一がフランスのパリを旅立つのは1868年9月4日である。あえて西暦で書いたのは、この時はまだ慶応四年、しかし、この出立前日の7月17日、江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書が出てなおかつ、8月27日に明治天皇が即位、そしてパリを旅立った4日後の9月8日に元号は明治となる。まあ、ちょっと日付によって元号が変わるので、何とも書きにくいところである。
さて、この時代、私がいま一生懸命になっている山田方谷は、鳥羽伏見の戦いで江戸に撤退した徳川慶喜について江戸に行った備中松山藩主板倉勝静に代わって、備中松山城を官軍に無血開城をしたのが1月18日、そして、運悪くその時に玉島の柚木邸に戻ってきてしまい、松山藩の責任を一身にかぶった形になってしまった熊田恰が自刃したのが1月22日。そのような形になっており、一方の板倉勝静は開陽丸に乗って仙台、そして宮古から五稜郭に転戦している最中である。この備中松山城の無血開城の2か月後3月14日に勝海舟と西郷隆盛による談判が妥結し、江戸城も無血開城になる。渋沢栄一の本来の君主である徳川慶喜は、この間に、上の寛永寺に蟄居し、そして無血開城の後に水戸に幽閉されることになる。
渋沢栄一は、徳川昭武(慶喜の弟)とともに、そのようなこともわからず、船で日本に戻ることになる。そのパリの出立までが今回書かれたのだ。
【青天を衝け】“怒”の吉沢亮に引き込まれた第24回 泥臭く、熱い男を表現する見事な演技力
7月18日から、東京2020オリンピックでの休止を経て、4週間ぶりに放送された大河ドラマ『青天を衝け』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)。この日の放送を待ち望んでいたファンたちは、吉沢亮(渋沢栄一/篤太夫)の圧巻の演技に、引き込まれた人も多いのではないだろうか(以下、物語の内容に触れます)。
15日放送の第24回「パリの御一新」。篤太夫や昭武(板垣李光人)らがパリで新年を祝う中、幕府から書状が届く。“慶喜(草なぎ剛)が政を朝廷に返上した”との文面に一同大混乱をするが、篤太夫は昭武の留学費用を捻出すべくさらなる節約策を講じる。
そんな中、篤太夫はエラールに連れられ、証券取引所を案内される。債券の仕組みを教わり、一人ひとりの小さな力が合わさり、この世を変えられることを知り、新たな決意を抱く。その時、日本では、成一郎(高良健吾)、惇忠(田辺誠一)、平九郎(岡田健史)が、新政府軍と戦っていた…という内容だった。
昭武は受け取った慶喜の手紙に対し「まったくもって解せませぬ」といい「朝敵の汚名をきせられ追討軍に追われても勇敢な家臣と戦わず、かようなありさまで神祖300年のご偉業を自ら捨てられ、東照大権現さまになんと申し開きをなされるおつもりか!」と信頼を置く慶喜に対し“怒”の感情をあらわにした。さらに、成一郎(高良健吾)からの手紙には涙を流し、言葉には言い表すことのできない感情を表現していた。
そしてなにより圧巻だったのは、幕府が各国に派遣していた留学生を招き入れ、待遇に不満を述べる留学生たちに対する篤太夫の感情が爆発したシーンだろう。
「一体お主らはいまのお国元をなんと思っておられるのか? 俺は喜望峰回りの帆船で帰らされようとするお主らが、みじめな目にあわねぇように図ってやった。これはただかわいそうだと思ってしたことじゃねえ。国のためだ。学生をよこしておきながら国の騒動で帰る始末もつけられず、荷物同様で送り返したとあっては、国の名誉に関わると思えばこそのこと」と日本のことを案じるせりふが印象的だった。
続けて「こっちとてこの先、公儀から金が送られてくるかどうかもわからず、いまある金をでぇじに使っている中、民部公子(昭武)の金をどうにか削って計らってやってるんだ。その苦労も意味も察することができねえとは! ただ知識を多く得れば偉いとでも思ってんのか? 公儀はこんな思慮の足りねえ性根の腐ったものを育てるためにわざわざ苦しい懐から学生を送ってきたのか? だとしたら俺はこうぎのために嘆く。大いに嘆くぞ。ここで嫌ならすぐさまでていけ! お国が戦というこの一大事によしんばどんな柔らけえ床でネタとしても臥薪嘗胆の心があってしかるべきじゃねえか!」と長せりふの上、さまざまな思いをくみ取って、感情をあわらにする篤太夫に胸を打たれた人もいるのではないだろうか。
“国宝級ランキング”では1位に輝き、その“美”が注目されることが多いであろう吉沢。だが、本作で見せる姿は、決して美だけでなく、ときには慶喜を全力疾走で追いかける泥臭さ、今回のように怒を全面に出すなど、喜怒哀楽をうまく表現する“演技力”こそに魅了される場面が多々ある。
第25回では、篤太夫は帰国し、いよいよ明治の時代に突入していく。振り幅の広い演技力を見せてくれている吉沢が、明治の栄一をどのように演じてくれるのか、今から楽しみでならない。
8/16(月)オリコン
https://news.yahoo.co.jp/articles/f9c6827dd5347e46194436cbc0fa80b364039307
いくつかのコントラストが書かれ、そのコントラストをうまく演出した内容であった。本日のブログは久しぶりであるということから、まあ、私の手前味噌の話もたくさん含めて話をしよう。たまには自慢話も面白いのではないか。
さて、まず1カ月休止後の「青天を衝け」であるが、世帯平均視聴率が14・3%であり、第23回の14.1%に比べ0.2%アップしている。これは、相変わらず「青天を衝け」の人気が高いことがある。「合戦がない」という大河ドラマでなかなかむ難しいといわれた作品であったが、その中で、このような数字が撮れているのはなかなか面白い。
その「合戦」だが、今回は、本来「鳥羽伏見の戦い」など様々な戦争が書かれていてもおかしくはない。何しろ、次週(第25回)に渋沢栄一が日本に戻るのは11月のことになるのであるから、戦争はすべて終わってしまっているはずである。しかし、この戦争は一切ドラマの中では書かれていない。私が「庄内藩幕末秘話」で使った「伝聞が入ってきてその言葉の中と、その場の雰囲気(表情など)で戦争を表現する」という手法が使われている。またこの「青天を衝け」の人々の演技がなかなかうまい。幕府が不利であるということと、実際に見ていないことから「そんなはずはない」というような、怒りに任せた言葉「これは策略だ」というような言い分など、なかなか凝った作りになっている。
この伝聞による戦争の描写というのは、なかなか面白く、その場にいて話を聞いている人が「やはり」というところと「まさか」という相反する感情、そして「その時自分がいれば」というようなところまで、様々な感情が交錯することになるのであるが、その感情をそこにいる人がしっかりと演じ分けていてかなり興味深いのである。
そして唯一の戦争を思わせるシーンが「彰義隊」である。彰義隊とは、徳川慶喜が勝手に蟄居してしまったことを不満に思った幕臣の本多敏三郎と幕府陸軍調役の伴門五郎が11日に檄文を発し、有志へ会合を持ち掛けてできたもので、そこに慶喜の臣下から頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任に付いたものである。しかし、慶喜が水戸に移送されることになり、意見が分かれ、渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を主張するが、天野八郎は寛永寺貫主を兼ね同寺に在住する日光輪王寺門跡の公現入道親王を擁して、徳川将軍家霊廟守護を名目に、江戸に駐屯することを主張し、分離。渋沢は同志とともに飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺で振武軍を結成し、独自に活動を展開することになる。よって渋沢成一郎や尾高惇忠という渋沢栄一ゆかりの人々は上野戦争は戦っていない。なお、記録によれば、上野戦争に参加した彰義隊は約2000、渋沢成一郎が組織した振武軍は約1000(いずれも少し多めに見積もっている)人ほどの兵がいたといわれている。
さて、この振武軍は、この後飯能日本人を置き、新政府軍と戦うことになるのだが、それは来週の話になる。実際は「天野派との対立から反応に撤退する」姿のはずが、NHKでは上野戦争で入瀬印したかのような形になっており、大河ドラマ紀行でも上野寛永寺が流されていたのは、まあドラマの「幕府側が不利な戦いをした印象付け」であるということになろう。
そして本題の「渋沢栄一の行動」である。証券取引所を見学し「民が少しずつ金を集めて儲けながら(利息を受けながら)国や会社が発展する」という「投資」を学び、そのことで徳川昭武一行のフランスの滞在資金を賄った。そのうえ、海外で留学していた幕府の人々をかき集めパリでかくまっている。この時に「贅沢三昧の他の留学生」に対して怒りの言葉を発するのであるが、そこがなかなか良い。まさに「陰で苦労している人が、もっとも言いたいことをさらっと言った」ということになろう。通常、「補給後方畑」の人と、「前線畑」の人とでは、後方の人の方が楽に見える。しかし、当時渋沢栄一など、フランスという異国の地で、幕府の状況を「想像(手紙によって得られる情報で考えるだけという意味で)」することしかない状況の中、何とか自立し、徳川昭武のプライドを傷つけないようにするというのは、なかなか大変であったであろう。現在でも「会社の対面」を保ちながら、会社の財政をしっかりとさせていながら、営業の人間たちに「お前たちは楽でいいよな」などといわれると、後方の人は腹が立つ。私などは法務部であったからよくわかる。彼らが営業をしやすいように、どれだけ苦労をしていると思っているのだ!と言いたくなる。まあ、それは言わないのが常であるが、このドラマの中で渋沢栄一の言った言葉は、なぜかすっきりした。
こっちとてこの先、公儀から金が送られてくるかどうかもわからず、いまある金をでぇじに使っている中、民部公子(昭武)の金をどうにか削って計らってやってるんだ。その苦労も意味も察することができねえとは! ただ知識を多く得れば偉いとでも思ってんのか? 公儀はこんな思慮の足りねえ性根の腐ったものを育てるためにわざわざ苦しい懐から学生を送ってきたのか? だとしたら俺はこうぎのために嘆く。大いに嘆くぞ。ここで嫌ならすぐさまでていけ! お国が戦というこの一大事によしんばどんな柔らけえ床でネタとしても臥薪嘗胆の心があってしかるべきじゃねえか!<上記より抜粋>
はっきり言うが、今でもこのような啖呵を切りたいときはたくさんある。まあ、まあ、ここまで言えればいいなと思う。向か氏の会社時代も含め言いたいことを言ってくれたような気がして何か嬉しい。また、この時に渋沢栄一役の吉沢亮さんの涙の意味も、何かすごく理解できる。今回のこの演技は、この部分だけを見ても、今年の大河ドラマの価値があったと思えるものではないのか。
次回、たぶん、飯能戦争があり、そして渋沢栄一が徳川慶喜と再開するというような形になろう。新政府になった日本を見て驚愕するに違いない。その場面に、今回のことがどのように反映されるのか、そこが楽しみである。
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