「宇田川源流」【お盆休みの歴史談義】 地域おこしと歴史
「宇田川源流」【お盆休みの歴史談義】 地域おこしと歴史
毎年、お盆休みは普段の記事とは異なり、全く異なった内容を書くようにしている。先週何もなかったので、読者の中には、あれ?おかしいな、と思った方も少なくないのではないか。
毎年、基本的には「お盆休みのエロ」として、土曜日のエロの延長版を延々一週間続けるというようなことをやっていたのである。まあ、私個人としては非常に楽しく、また、そのように関係のないことを書いていることによって、公判では「そろそろまともなことを書かね蹴ればならないのではないか」というような気分になってくるので、また年末までなかなかうまくできるようになってくるということになるのではないか。そのように私の個人的な事情によって、「お盆休みのエロ」を毎年やっていた。まあ、日本文化的なことを言えば、お盆という最も「あの世」と「この世」が近づいているときに、「生」について、その内容を書くということなので、それ里に意味があるのではないかというように、適当な自己満足をしているのであるが、まあ、それが伝わっている自身は全くないところがなかなか面白いところである。
さて、今年は例年と少し趣向を変えて、「お盆休みの歴史談義」ということをやってみたい。現在、岡山県の皆さんとともに「山田方谷」という幕末の偉人、まあ、幕末の学者であり、政治家であり、また武士であり教育者であった人物を主人公にした大河ドラマ誘致の活動を行っている。まだ結論は出ていないのであるが、その中で様々な気づきがあったので、その内容に関して今週は一週間見てみようと思う。
とはいえ、あまり神髄のところを書いてしまうと、ライバルの皆さんへ知恵をつけてしまうことになる。まあ、上杉謙信よろしく「敵に塩を送る」というようなこともよいのであるが、これも「お盆休みのエロ」と同じで、そのことが相手に伝わらないのではないかという危惧を持っているので、やはりその神髄のところは抜かして、かなり一般的なことを書いてみたいと思う。
お盆休みというが、まあ、本来は「先週」の人もいるし、先週の半ばから今週の半ばの人もいることは承知しているのであるが、まあ、私の勝手な「お盆休み」の内容ということで、考えてみようと思うので、その辺はお付き合いいただきたいと思うのである。
さて、その第一回は、まずは「歴史のとらえ方」である。
まずは「町おこし」「地域興し」ということには、いくつかのやり方がある。一つは「近代的な建築を行う」というやり方である。現在、テレワークなどがいわれるようになっていて、そのことから「スマートシティ化」ということが言われている。まさにネットがつながっていれば、住居の位置や職場を選ばないというのが「コロナウイルス禍の中の新しい生活」なのである。そのために設備などを整え、そして、近代的なオフィスに近いものを整備し、そして、そこに住人や職場を誘致するというようなやり方があることはよく知っている。
このほかにも「高速道路と高速鉄道(新幹線)を誘致する」というようなことを考える人も少なくない。以前驚いたのは、田舎町にタワーマンションを作るというお役人がいたことであるが、さすがにそれは正面から反対させていただいたことがある。都会から20分という好立地ながら人が少なくなっているというようなことがあり、そのようなことを思ったのであろうが、しかし、それは「なぜ過疎化が進んでしまったのか」ということが全くわかっていないのである。
人間は「職住接近」ということを好む。同時に、そのことによって、仕事と「普通の生活」を両立しようとしているのであるが、しかし、実際に考えることはそれだけではない。人間の生活というのはリズム、まあ習慣といった方がわかりやすいかもしれないが、ある意味で「癖」と「趣向」によってその習慣が変化する。その「癖と趣向」が満たされるという条件が必要なのであり、タワーマンションだけを作っても意味がないのである。
まあ、いずれにしても「スマートシティ化」も「鉄道や高速道路の誘致」も、また「タワーマンション」もうまくゆくものではないと思っている。これは「田舎に都会を持ち込んでも意味がない」もっと言えば、「都会に住みたい人は、田舎の中途半端な都会ではなく、東京に行ってしまう」のでありまた「都会化」ということでは、どんなに頑張ってみても、今から東京や大阪に勝てるものではないのである。
そのように考えた場合、「東京や大阪になくて、田舎にあるモノ」もっと言えば「田舎にしかないモノ」を使って地域興しを行うべきでであり、都会と張り合っても意味がないのである。
では「田舎にしかないモノ」とは一体何なのか。
それは「自然」と「不便さ」と「歴史」なのである。
都会の場合、基本的には自然がない。ある意味で「コンクリートジャングル」などといわれてしまっているところがあり、その中において、自分で「自然」を取り込む努力をするということになる。そのうえ、公園などがあっても、その公園でゆっくりすることが許されなかったり、子供がいれば不審者に間違われたりというようになる。「憩いの場を共有する」ということが難しいという感じになっているのではないか。その意味では、「自然にあふれている」田舎は、本当にありがたい。田舎の人にとっては「非日常」である都会が最も面白い場所であるかもしれないが、都会の人にとっては非日常である自然」が最も面白い場所であるということになる。
しかし、これも実は「田舎」といっては失礼であるが、要するに都会以外の場所であれば、ほとんどが同じであるということが言える。実際に、「山」「里」「海」「川」というような自然の種類が行利、その組み合わせということがあるが、それ以外は実はほとんど同じということになる。特に日本人の中には「住めば都」というような考え方があるので、まさにその「都」をしっかりと考えられることにすれば実は「田舎」に自然があるということだけでどうにかなるというような話にはならない。
次に「不便さ」である。
便利ということを売りにすることがあるが不便であるということを売りにするということはあまり考えたことがないのかもしれない。しかし、例えばこのコロナウイルス禍になってキャンプが非常に流行しているという現象はいったい何なのであろうか。そういうことを考えれば、だいたい「不便」ということを楽しんでいる風景がある。
さて、ここで言えることは「便利」とは一体何であろうか。ある意味で「便利」というのは「自動」ということに近い。自動というのは、ある意味で「失敗しない(同じことを繰り返す)」ということと「人を介在しない」ということを意味している。つまり、「不便を楽しむ」ということは「自分の思い通りにならないことを楽しむ」ということに他ならない。
もちろん不便そのものが日常になることに関しては、様々な意見があると思われるが、しかし、それが「楽しく」思えることもあるし、またその不便さから自分なりに様々なことを工夫するというような知恵が生まれる。病院やそのほかの命にかかわること以外は、実は少し不便であることの方が人間が成長するということになる。
しかし、この不便さに関しても「他の田舎」と同じなのである。
つまり「田舎」が「ナンバーワン」から「オンリーワン」になる瞬間というのは「オリジナル」をうみだしたとき、つまり「そこにしかないものは何か」ということになる。
それが「歴史」なのである。
実は「歴史」だけは共有できていない。いや共有することができないものなのである。歴史というのはその知己とその地区の動き、人、村における人の上下関係や掟など様々な要素によってつくられる。つまりその「地縁的なつながり」が違えば、全く異なる歴史を作ることになる。
その違う歴史の者同士が「地域で連携する」ということが行われるだけのことである。まさにそのような地域連携があるが、それは歴史の共有とは異なるものである。
そのようにして「歴史」は、「人」「環境」「気候」などから固有にできるものである、そしてその環境や気候によって人や生活が変わり、その人や生活の中から、「新たな人材」が生まれることになる。まさに歴史とは「地域」特有のものであり、またその地域の生活や歴史、事件などによって、作られるものなのではないか。
そのような感じで「歴史」は「地域固有」のものであり、オンリーワンになれるチャンスであるということになるのである。
さて、明日からその内容を感がてえ見ることにする。
今日は初めなので、まあ、これくらいにしておこう。
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