「宇田川源流」 今年も発表されたサラリーマン川柳の中に描かれたコロナ禍の世相
「宇田川源流」 今年も発表されたサラリーマン川柳の中に描かれたコロナ禍の世相
私が毎年楽しみにしているサラリーマン川柳が、今年も発表された。川柳というのは、なんとなく風流でありながら世相をするごく書いており、なおかつ、17文字の中に様々な事情がうかがえるというなかなか面白いものである。何年か分などを比較すると、かなり世相の違いが見えてくる。
今年の場合、昨年の世相といえば「コロナウイルス禍」によるものが多く、結局それで「生活が一変した」という人は少なくない。なんとなく毎日ラッシュの電車に揺られて、朝から会社に行き、上司の顔色を見ながら仕事をして、その後どこかで酒を飲んで憂さ晴らしをし、そして帰ってから家族の顔を見る。家族関係が良いのか悪いのかによってその内容は変わってくるが、まあネットやスマホによって「団らん」というのはなかなか少なくなってきたのではないか。
そのように考えれば、今年の内容は「テレワークで会社に行かなくなった」これは上司の顔を見るのが最小限でよいということと、ラッシュの電車がなくなるということが挙げられるが、同時に、家族と一緒にいなければならない、酒を飲むことができないというようなはなしになってくる。問題は、その一長一短が、どちらが大きいかということがなかなか面白く出てくるのではないか。
さて、ちょっと紙面をもらって、先に、そのサラリーマン川柳のベストテンを見てみよう。
サラリーマン川柳ベスト10
1位 会社へは 来るなと上司 行けと妻
2位 十万円 見る事もなく 妻のもの
3位 リモートで 便利な言葉 “聞こえません!”
4位 嫁の呼吸 五感で感じろ! 全集中!!!
5位 じいちゃんに J・Y・Parkの 場所聞かれ
6位 我が部署は 次世代おらず 5爺(ファイブジイ)
7位 お父さん マスクも会話も よくずれる
8位 YOASOBIが 大好きと言い 父あせる
9位 お若いと 言われマスクを 外せない
10位 抱き上げた 孫が一言 密ですよ
「会社へは 来るなと上司 行けと妻」サラリーマン川柳トップ10
世相や生活の悲哀を詠む毎年恒例「サラリーマン川柳」のベスト10が発表されました。
今年で34回目となる第一生命のサラリーマン川柳。6万句以上の作品のなかからウェブ投票で1位に選ばれたのは、「会社へは 来るなと上司 行けと妻」でした。新型コロナウイルスの感染拡大でテレワークが広がるなか、会社と家庭の間で板挟みになるサラリーマンの悲哀が共感を呼んだようです。そのほか、トップ10には「我が部署は 次世代おらず ファイブジイ」「じいちゃんに J.Y.Parkの 場所聞かれ」など様々な流行を取り入れた句も見られました。
全体の8割ほどが新型コロナ関連だったということで、担当者は「来年はコロナが収束し、また新たなトレンドが生まれてほしい」とコメントしています。(27日10:09)
2021年05月27日 10時33分 TBS
https://news.nifty.com/article/economy/economyall/12198-1085971/
今年の川柳においては、やはり「テレワークへの戸惑い」というのは非常に大きく出ている。ある意味でかなり楽しい内容になっているのと同時に「わかる」(さすがに私も同じであるというようなことを思ってもそれを表すことはできない人が多いのではないか)というような川柳が少なくない。
テレワークなどのコロナに関係ない流行という意味で言えば、「全集中」「J・Y・Park」「YOASOI」というところであろうか。まあ、これらの川柳は、10年後に読んで「ああそんなのはやっていたな」というような感じになるのであろうが、その中においてなかなか面白い所であろう。流行というのは、単純に言って「その時にしかわからない空気」というものがあり、その空気に染まっていないとわからないというような感覚がある。ぎゃくにいえば、同じ時代に生きていても、その「流行の空気」を浴びていない人は、ほとんどわからないというような感じになるのではないか。
この「流行」ということに関しては、特に日本人の場合、その波が激しく、何か投資したころにはすでに流行が終わっているというような感じがある。そういえばルーズソックスやガングロメイクなどは今はなくなっているし、ベルギーワッフルもほとんど見ない。徐々にタピオカも無くなってきているし、そういえばJ・Y・Parkもあまり見なくなってきたのではないか。そのような世相が残ってくるのはなかなか楽しいものである。
一方やはりコロナウイルスに関する内容は、なかなか面白い。その中でも、このベストテンの中に「コロナ」という単語そのものが全くないというのは、なかなか面白いのではないか。ある意味で「コロナ」が流行ではなく、世相の中にすでに取り込まれてしまっており、そのコロナウイルスからの「現象」が表に出てきていることの表れではないかという気がするのである。
日本人というのは、ある意味で「慣れ」というか「習慣化」することが早く、その環境に適応することが非常に上手な民族である。そのように考えた場合、ある意味で「コロナウイルス」そのものや、あるいは、川柳に描かれているような世相にすでに慣れてしまっており、それを笑い飛ばすというような感覚がどこかにあるのではないか。深刻に悩んでいるのではなく、実際の所では、その感覚を自分たちの中に取り込んで、新たな内容を考え、動いてゆくというような感じいなっているのではないかという気がするのである。子の川柳を見ていると、そのような世相が見えてくるような気がするのであるのだが、それは深読みのし過ぎであろうか。
この川柳を毎年見ていると、なんだかんだ言いながら不満を表に出しながらもその環境に慣れて、なんとなく働く、日本人の「すばらしさ」が見えてくるような気がするのである。
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