「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】2 私と山田方谷の出会い
「宇田川源流」【GW特別企画 山田方谷】 私と山田方谷の出会い
第一回目は、あまり山田方谷と関係のない話になってしまったので、今回から実質的に第一回というような感じで受け取っていただけるとありがたい。
さて、まず私と山田方谷の「出会い」ということをお話ししておかなければらないのではないか。
実際には時代が違うので、実物の山田方谷とは会うことはできないのであるが、まあ、小説や資料を書く中で出会うというのも、一つの出会いではないかと思う。
そのような意味で山田方谷という人物が私の中に出てくるのは、実は2015年に上梓した「暁の風 水戸藩天狗党始末記」の中でした。
その部分を抜粋してみましょう
まあ、私の本なので、出版社もあまりうるさいことは言いませんし、また、著作権は基本的に関係はないので、その部分をお見せします。
まあ、興味のある人は出来れば買ってください。
<以下「暁の風」より抜粋>
板倉勝静、備中松山藩で、農商出身の陽明学者山田方谷を抜擢し、藩校有終館の学頭とした名君である。この山田方谷と、原市之進は、お互いが若いころから交流があり、慶喜が老中の中で最も信頼しているのがこの板倉勝静であった。後日談になるが、鳥羽伏見の戦いの前に大阪城代で慶喜が相談したのが板倉である。
「まさにその通り。しかし、人質のように京都にとどめ置かれては」
「今なんとおっしゃられた」
小笠原長行、老中外国事務総裁で開国派の重鎮である。5月10日を前に、生麦事件の賠償金を幕府として薩摩藩に代わってイギリスに払ってしまったのは、小笠原の独断であった。
「いや、単に独り言を」
慶喜はわざととぼけた。原市之進の指示通りである。
「独り言とは思えぬ。将軍が朝廷の人質になるなど、前代未聞の珍事であり、幕府が笑いものになるではないか」
小笠原はいきり立って苦情を言った。
「いや、単に独り言であるので、御懸念くださるな」
慶喜は、わざととぼけた。食って掛かってくることなど、原の読みは的確である。その驚きが顔に出ないようにすることのほうが難しかったくらいである。
「将軍は武家の棟梁であり、帝より政務全般を任されている。その将軍が人質となろうはずがありません。しかし、攘夷のお考えが強い帝と共にあれば、いつの間にか将軍も攘夷のお考えになろうかと……」
板倉勝静は、小笠原の方に向かっていった。珍しく開国派を標榜している小笠原は、より一層いきり立った。今将軍に攘夷派になられては、今まで自分がし来たことは水泡に帰すばかりか、将軍の考え方と全く異なることをしてしまうので、失脚は間違いがない。それどころか、切腹も考えなければならない状態なのである。そうでなくても老中ではなく老中格として末席に追いやられているのである。
「どうしたらよいか」
「迎えに行かれればよかろう。朝廷は兵もないなければ、武士もいない。それに、会津の松平容保殿もいるのだ。何も畏れることはありますまい」
なんと事なかれ主義の代表のような本多忠民が、口を開いた。本多は京都所司代を行っていただけに京都の事情は明るい。そのために、本人は、京都の説明をしたつもりであったが小笠原長行にとっては、背中を押す一言であった。
「わかった、御免」
小笠原は、そのまま広間を退出して行った。
「事件にならなければよいが」
事なかれ主義の水野忠精は心配そうに襖の外を見送った。その目の先の廊下には、本来、ここにはいないはずの原市之進と、備中松山からはるばる来ていた山田方谷が笑顔で控えていたのである。
「しかし、市之進の言うとおりにすべてことが進んだではないか」
<以上抜粋>
原市之進というのは、水戸藩藩士・原雅言の次男で水戸斉昭に見いだされた人物です。
文久3年(1863年)、徳川慶喜は安政の大獄によって失脚していたのですが、この時に文久の改革によって将軍後見職に復権し、幕政を担うため有能な人材を集めていました。 その時に、水戸藩からの推薦で原市之進を側近として迎えることになるのです。翌年、元治元年(1864年)、慶喜の側用人であった平岡円四郎が暗殺されてしまいます。現在、大河ドラマで主人公になっている渋沢栄一もこの平岡円四郎の推薦で徳川慶喜の傍に使えていたようになるのですが、この原市之進はそれとは別にスカウトされたようです。
当初から、水戸弘道館の訓導(教授)をしていましたし、経済なども講じる箐莪塾を開き、門弟は500人以上いたのです。この私の小説「暁の風」のもう一人の主人公、そして、藤田東湖の息子である藤田小四郎も、この原市之進の塾の門弟であったとされています。
同年慶喜が禁裏御守衛総督に就くと、原市之進は正式に一橋家の家臣となり、以降、慶喜の元で重要な機密にたずさわり、補佐するようになるのです。慶応2年(1866年)7月に将軍・家茂が急死すると、その後継を引き受けるか迷う慶喜と原市之進が話すことになります。そんなことまで話せるような側近中の側近であったということになりますね。
まあ、ある意味で、完全な軍師参謀であったということがわかります。
徳川慶喜は、徳川家が今までのように持ち堪えられそうになく、いっそ幕府を廃して王政を復古するのはどうか、と市之進に相談するのです。それでは、幕府そのものが瓦解してしまうし、また、幕府側の人々から徳川慶喜が狙われることになりかねない。慶喜を廃し、他の人を将軍につけて幕府を存続させる動きが出てくることになると考えていたのです。そのことを危惧した原市之進はその本心を絶対に漏らさぬように慶喜に厳重に口止めし、将軍就任を承諾させるため、徳川宗家と将軍職を切り離し、まずは宗家の相続を進言し、慶喜も同意するのです。
しかし、このように徳川慶喜のために何とか尽くしていると、他の大義の部分がずれてしまうことになります。当然に、幕臣の中には徳川慶喜の近くに控えている原市之進が「奸臣」であると思う人がいるようになります。慶応3年8月14日(1867年9月11日)、同僚の鈴木豊次郎・依田雄太郎ら刺客により、結髪中に背後から襲われ、首をもがれて暗殺されてしまうのです。
享年38。
私自身は、この原市之進は、同じ参謀軍師であっても「明るさ」のない「闇」を伴ったような感じに受け取っていたのです。徳川家康における金地院崇伝や、三国志における司馬仲達のような感じであり、諸葛孔明のような明るい、清廉な軍師には見えなかったのです。
その時に板倉勝静の傍に控えていた山田方谷を見つけ出したのです。
徳川慶喜は、大政奉還の時にも板倉勝静に相談していたし、その板倉勝静の後ろに山田方谷がいたことをよくわかっていました。そう、ある意味で山田方谷こそが、この幕末において、劉邦における張良、劉備における孔明、秀吉における竹中半兵衛、徳川家康における天海のような感じではないかと思ったのです。
幕末というのは、とかく「軍師」という人が活躍しないように伝わっていた時代です。本来ならば軍師となりうるくらいの下級武士が、一人のプレーヤーとして出てくるのです。多くの人は、そのようなことにロマンを感じているのではないかと思います。しかし、私はそうではなく、一つの組織がある場合、その組織の「頭脳」と「肉体」は異なるようになっていたと思うのです。
つまり「顔」となる大名、「頭脳」となる軍師、「手足」となる武将、そして「内臓」となる農民や庶民、そんなように組織として役割が異なるというように考えていたのです。ある意味で、野球でどんなにスーパースターがいても、一人ではできないし、またスーパースターばかりでは勝てないチームになってしまうという感じではないかと思います。その意味で、幕末の山田方谷の存在は、私にとっては「やっぱりこういう人がいないと面白くない」というような感覚になったのです。
当然に、それから山田方谷を調べ始めました。
もちろん、その内容に関しては、小説に全て書いてあります。調べるにあたっては一度岡山に行きました。
昔、馴染みであった顧問先の会社が岡山県浅口郡にあるので、それまでも岡山には何回か出かけたことがありますが、しかし、歴史の事、それも山田方谷の事を調べに行くというのは全く異なります。小坂部の山田方谷記念館に行き、なぜ農村地の真ん中にあるのか、その時は全く理解できなかったのです。
ものすごく頭の良い人が、世捨て人のようになってしまい、優秀であるのにその能力を封印して、田舎に庵を結んで隠棲することはあります。しかし、そのような人は、多くの犠牲を払っている人ではないかと思います。実際に、劉邦の傍らの参謀張良はそうですし、またそのほかの人々も、いつの間にか消えてしまっている人が少なくないのかもしれません。
そのような「なんで」の疑問を持つことが、初めの出会いだったのです。
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